今回は、ナチス・ドイツの医師たちによる人体実験と、それを裁いた基準である、いわゆる「ニュルンベルク・コード」をめぐる歴史的事実を振り返ってみます。
I. 法廷と罪状----何をやったのか
ナチス・ドイツを連合国が裁いたニュルンベルク国際軍事裁判のうち、米国が単独で担当した12のいわゆる「継続裁判」の第一法廷の第一事件は、23人の被告のうち20人が医師であるという特異な裁判でした。「医師裁判 the Doctors' Trial」とか「医学事件 the Medical Case」とも呼ばれるこの裁判は、ナチス・ドイツ時代に医師たちによって、医学の名の下に、行われた犯罪を裁くものだったのです。裁判は米国式に行われ、検事団と裁判官はみな米国人でした。
ニュルンベルク裁判の根拠となったのは、1945年12月20日に定められた「ドイツ管理委員会法・第10号 Control Council Law No. 10」です。この第2条第1項に「平和に反する罪」「戦争犯罪」「人道に反する罪」「国際軍事法廷によって有罪とされた犯罪集団および組織の成員であること」の4つの罪が規定されています。この法律は1943年10月30日(発表は11月1日)にルーズベルト・チャーチル・スターリンが署名した「ドイツの残虐行為に関する宣言」(モスクワ宣言)と、1945年8月8日に米・仏・英・ソ4国の代表が署名した、枢軸国の戦争犯罪の訴追と処罰に関する合意(ロンドン合意)に基づいていました。
医師たちの訴追は「共同謀議 The Common Design or Conspiracy」「戦争犯罪」「人道に反する罪」「犯罪組織への所属」の4点にわたって行われました。第1点の「共同謀議」とは、戦争犯罪と人道に反する罪への荷担を共謀したという罪状です。また第4点は、ナチス親衛隊へ所属していたことが問われました。そして、第2点「戦争犯罪」と第3点「人道に反する罪」の罪状として挙げられたのが、以下に述べる、人体実験などの事柄でした。
(A) 超高度実験
ドイツ空軍が新しく開発した戦闘機は、イギリスの戦闘機よりも高い高度を飛べるように、高度18000mまで上昇できるようになっていましたが、このような高度における低い気圧に操縦士が耐えられるかどうかが問題でした。12000m以上の高度に匹敵する低圧実験は、志願者に著しい苦痛を与えたために中断せざるを得ませんでした。そこで空軍軍医大尉のS. ラッシャー医師(敗戦前に死亡)、ドイツ航空実験研究所のS. ルッフ医師およびH. W. ロンベルグ医師は、ナチス親衛隊次官のR. ブラントの許可を得て、低圧実験室の中にダッハウ強制収容所の囚人を入れて高度20000mに匹敵する低気圧にまでさらす実験を、1942年3月頃から8月頃まで行いました。ユダヤ人やポーランド人やロシア人捕虜約80人がこの実験で亡くなりました。実験の経過は克明に記録され、死体は解剖されました。かろうじて生き残った被験者もひどい後遺症に苦しみました。
(B) 低体温実験
空中戦で撃墜されパラシュートで脱出した後、北海に落ちたパイロットは、冷たい海水にさらされて凍死することがありました。そこでドイツ空軍軍医中佐G. A. ヴェルツ医師はラッシャーと協力して、低体温状態に陥った人間を蘇生させる実験を、ダッハウ強制収容所で1942年の8月頃から1943年の5月頃まで行いました。囚人たちは、耐寒飛行服を着せられて氷水のタンクに3時間漬けられるか、凍てつく戸外に裸で9時間から14時間さらされたあと、さまざまな方法で体を温められました。被験者の体温測定や血液の採取が行われ、死亡した被験者の解剖も行われました。温める方法は、熱い湯につけるほか、親衛隊元帥ヒムラーの命令でラヴェンスブリュック強制収容所から4人のロマ(いわゆる「ジプシー」)の女性囚人を呼び寄せ、裸にさせて被験者を2人ずつの間にはさんで体温で温めさせるということまで行われました。この実験で約90人の囚人の生命が奪われています。
実験結果は1942年10月にニュルンベルクで行われた医学会議で、ラッシャーにより「低体温の防止と治療」と題して、またヴェルツにより「危険な点にまで冷却した後の温め直し」と題して、それぞれ発表されています。
(C) マラリア実験
やはりダッハウ強制収容所で、1942年2月頃から1945年ころまで行われたこの実験では、1000人以上の囚人たちが、汚染された蚊に刺されたり、蚊の粘液腺からの抽出物を注射されたりして、人為的にマラリアに感染させられ、さまざまな予防薬や治療薬のテストに使われました。カトリックの司祭も被験者の中に含まれていました。30人がマラリアによって死亡し、300人から400人が薬の副作用や合併症で亡くなったといわれています。
(D) 毒ガス実験
「ロスト」と呼ばれた毒ガス(マスタード・ガス)による火傷の効果的な治療法を開発するための実験で、1939年9月から1945年4月まで、ザクセンハウゼンやナツヴァイラーをはじめとする各地の強制収容所で何度も行われました。被験者は毒ガスを肌に塗られ、全身に火傷を負ってひどい苦しみを味わい、盲目になったり死亡した者もいました。被験者の傷や回復の様子は毎日写真に撮られ、死亡者は解剖されました。被験者や解剖で取り出された臓器の写真は写真集として公刊されました。
(E) サルファ剤治療実験
1942年7月頃から1943年9月頃までラヴェンスブリュック強制収容所で行われたこの実験は、戦場での負傷にサルファニルアミド(サルファ剤)がどのくらい有効かを確かめるものでした。被験者は足に切り傷を作られ、傷口に木くずやガラスの破片を擦り込まれ、数日後にサルファ剤で治療が試みられました。銃創に似せる場合は、傷の上下の血管を結紮して血行が妨げられ、ガス壊疽に感染させられました。被験者は死亡したり、ひどい後遺症に苦しんだりしています。
(F) 骨・筋肉・神経の再生実験および骨移植実験
やはりラヴェンスブリュック収容所で、1942年9月頃から1943年12月頃に行われた実験で、女性の囚人から骨や筋肉や神経の一部を摘出してそれらが再生するかどうかを調べ、また他者への肩胛骨の移植が試みられました。実質的には科学的目的すらなく、ただ被験者にひどい苦痛を与えただけの、無意味な実験でした。
(G) 海水飲用実験
ドイツ空軍と海軍の要請で1944年7月にダッハウ強制収容所で行われた、非常時に海水を飲めるようにするための実験です。被験者となった囚人は、難破した時と同じように乏しい食糧しか与えられずに、4つのグループに分けられます。第1グループにはいっさい水分を与えられません。第2グループには通常の海水だけが与えられます。第3グループには塩味を隠しただけで塩分はそのままの海水が与えられます。そして第4グループには塩分を取り除いた海水が与えられました。ロマの人々、ユダヤ人、および政治犯が被験者として用いられ、ひどい苦痛にさいなまれ、亡くなる人もいました。
(H) 流行性黄疸(肝炎)実験
1943年7月頃から1945年1月まで、ザクセンハウゼンとナツヴァイラー強制収容所で、流行性黄疸(肝炎)の原因と予防接種を研究するための実験が行われました。11人のユダヤ人の子供を含む被験者は肝炎に感染させられ、肝臓穿刺を受け、死亡したり、著しい苦痛にさいなまれたりしました。
(I) 断種実験
アウシュヴィッツ、ラヴェンスブリュックほかの強制収容所で1941年3月頃から1945年1月頃まで行われたこの実験は、ロシア人・ポーランド人・ユダヤ人その他の人々を、少ない費用でそうと気づかれないうちに大勢断種できる簡便な方法を開発するためのものでした。数千人の人々がX線照射や手術や薬剤で不妊にさせられ、副作用に苦しみました。
(J) 発疹チフスなどの実験
1941年12月頃から1945年2月頃にかけてブヘンヴァルトとナツヴァイラーの収容所で、発疹チフスの実験が行われました。ワクチンや薬剤の有効性を確かめる実験では、被験者の75%にワクチンや薬剤を投与され、3週間から4週間後、発疹チフスに感染させられました。残りの25%の被験者は「対照群」として、何の予防措置もなくチフスに感染させられました。それだけではなく、単に発疹チフスウイルスの培地とするためだけに数多くの健康な囚人がチフスに感染させられ、その90%以上が死亡しました。数百人の人々がこの実験の犠牲になっています。黄熱病、天然痘、パラチフス、コレラ、ジフテリアの実験も行われました。
(K) 毒物実験
1943年12月頃と1944年10月頃に、ブヘンヴァルト強制収容所で、さまざまな毒物の影響を調べる実験が行われています。ロシア人囚人の食事にひそかに毒が混ぜられ、死亡したり、生き残った場合でも解剖のために殺されました。1944年9月頃には5人の囚人が毒を詰めた銃弾で撃たれ、弾が貫通した2人を除く3人が毒によって死亡したという実験報告があります。
(L) 焼夷弾治療実験
1943年11月頃から1944年1月にかけてブヘンヴァルト収容所で、焼夷弾による火傷の治療実験が行われました。1943年11月には5人の被験者が英国軍の焼夷弾から取り出された燐で火傷を作られ、著しい苦痛を味わわされました。
(M) ユダヤ人骨標本コレクション
親衛隊大佐W. ジーフェルスは1942年2月、R. ブラントを通じてヒムラー元帥に、ユダヤ人種の頭蓋骨標本を作る学術的必要性を訴え、そのためにユダヤ人共産党員の捕虜を用いるよう要請しました。ヒムラーは東部戦線の捕虜ではなくアウシュヴィッツ強制収容所の囚人を用いるよう伝えました。その結果、112人のユダヤ人が選ばれ、写真を撮られ、人体各部分を計測された後に殺害されました。死体はストラスブルク大学に送られて解剖され、さまざまな検査や臓器の計測が行われたあと全身骨格の標本にされ、ストラスブルク大学解剖学研究所の骨標本コレクションに加えられました。
(N) ポーランド人結核患者の大量殺害
1942年3月から1944年1月にかけて、占領したポーランド地域に住むドイツ人の健康を護るために、結核に感染されているとみなされたポーランド人は殺害されたり、治療施設の乏しい収容所に押し込められたりしました。そのため、数万人のポーランド市民と兵士が結核で死亡しました。
(0) 障害者の「安楽死」
1939年9月から1945年4月まで、ドイツおよび占領地各地で、障害者・高齢者・末期患者・奇形児など「穀潰し」とされた人々の大量殺害が行われました。「安楽死」と呼ばれたこの殺害計画は、ナーシング・ホームや病院や施設で、ガスや注射その他の方法を用いて行われ、遺族には自然死や病死と伝えられました。「安楽死」に従事した医師たちはやがて東部の占領地域に送られて、ユダヤ人の抹殺に従事しました。
II. 人体実験の背景
ところで、これらの実験および殺害はなぜ起こり得たのでしょうか。
ナチスのさまざまな人体実験は、基本的には、強制収容所の囚人という《いずれ始末する》人間を《有効に》利用した、という性質のものであったといえます。医師で医学史家のC. プロスは、彼のインタビューに答えてある女性医師が語った話を次のように記しています。
1943年に彼女は医学生としてベルリンのある研究室で腎臓の機能に関する実験をしていた。彼女はこの実験を自分自身と同僚の学生に対して行っていた。ある日、アフリカ戦線から帰ったばかりの空軍の軍医が彼女の実験室に立ち寄り、こう叫んだ。「この実験を自分自身に対してやるなんて、どうかしてるんじゃないか?強制収容所はそのためにあるんじゃないか!」
(Christian Pross, "Das Krankenhaus Moabit 1920, 1933, 1945," in C. Pross & R. Winau (eds.), Nicht misshandeln, Edition Hentrich, 1984, p.226; Pross, "Nazi Doctors, German Medicine, and the Historical Truth," in Annas & Grodin, The Nazi Doctors and the Nuremberg Code, p.34.)
そして《いずれ始末する》人間、というカテゴリーを生み出したのは、ナチスの人種主義でした。ヒトラーは、ナチスのバイブルとなった『わが闘争』の中で述べています。
「人間の生存の最高の目的は、国家の維持やあまつさえ政府の維持ではなく、その種の保存である」
(Adolf Hitler, Mein Kampf, Zwei Baende in einem Band, Ungekuerzte Ausgabe, Zentralverlag der NSDAP, 1940, S.104. 平野一郎・将積茂訳『わが闘争』全2巻、角川文庫、1973年、上巻 p.146。強調は原文のまま【以下同様】)。
ここでいう「種」とは、ホモ・サピエンスという生物種ではなく、人種 Rasse (race) を意味します。そこで
「血と人種に対する罪は、この世の原罪であり、それに手を染めた人間たちの破滅である」(ibid., S.272. 邦訳上巻 p.353)
「最も神聖な人権はただ一つだけあり、この権利は同時に最も神聖な義務でもある。すなわちそれは、血を純粋に保つよう配慮することである。それは、最良の人類を保存することで、人類のより高貴な発展の可能性を与えるためなのだ」(ibid., S.444. 邦訳下巻 pp.52-53)
ということになります。
このナチスの人種主義は、一方では優秀な人種としてのドイツ人(「アーリア人」)と劣等な人種(「亜人間 Untermenschen」すなわち下等な人間)としてのユダヤ人・スラブ人・ロマの人々・黒人・アジア人という人種間のランクづけを含むと同時に、もう一方ではドイツ人の中での優秀な人々(健康で逞しく多産)と劣等な人々(病人や障害者)という人種内でのランクづけを含みます。前者の人種間のランクづけは、やがてユダヤ人・ロマの人々・スラブ人(ポーランド人やソ連人)の大量殺害へと向かい、後者の人種内でのランク付けは、断種法である「遺伝病子孫予防法」や、障害者を抹殺した「安楽死」計画へと向かうことになります。
そして、ナチスの人種主義は、優生学と人種衛生学 Rassenhygiene(民族衛生学)によって科学的に補強されていました(以下、主に米本『遺伝管理社会』を参照。ただし「Rasse」はすべて「人種」に訳し変えています)。
優生学は、ダーウィンの従兄弟F. ゴルトンによって19世紀後半に始められた、人種の生得的な質の改良と発展をめざす学問でした。発祥の地英国では労働者や貧民層など下層階級の人々による国民の劣化が中心問題とされていましたが、米国に移入されると、黒人や、南欧やアイルランドやスラブ系の移民など、劣等な「人種」の問題がまさしく優生学の課題となりました。また米国では知的障害者などの断種も、第2次大戦後に優生学が勢いを失うまで、さかんに行われていました。こうした米国の優生政策は、ナチスの模範となっています。
ドイツでは、ダーウィンの『種の起源』に啓発されたE. ヘッケルが19世紀から独自の解釈に基づく進化論を説いていました。ヘッケルの社会ダーウィニズムは、生物学を基本に据え、生存闘争の原理に基づく「新しい倫理」を求めるものでした。これは「ドイツ一元論同盟」(1906年)を発足させるなど、大きな社会的影響を与えています。
こうした社会状況の中で、A. プレッツは1895年に『人種衛生学の基本方針』を著し、1904年には『人種生物学および社会生物学雑誌』を創刊し、翌1905年には「人種衛生学会」を設立しました。彼によると人種衛生学とは「人種の最適の維持条件および発展条件に関する学問」( Archive fuer Rassen- und Gesellshaftsbiologie, Vol. 1, 1904. 米本『遺伝管理社会』p.69 による)です。この人種衛生学がドイツにおいては優生学の代名詞となり、とくに第一次世界大戦後になると、ドイツ国家の危機を救う応用科学として、政策にも取り入れられるようになりました。1920年にプロシア内務省厚生局に設置された「人種衛生顧問会議」はやがて「人種衛生・人口問題委員会」として「プロシア保健会議」の一部に統合されます。ドイツ人種衛生学会の主導権は、プレッツのような在野研究者から、内務官僚と専門の遺伝学者の手に移りました。国立遺伝研究所の設置運動も起こり、1927年にカイザー・ウィルヘルム人類学・人類遺伝学・優生学研究所が設立されました。この研究所は、ナチス時代にはナチス人種衛生学の研究拠点となり、ここの研究者たちは上述の人体実験などにも深く関与していました。
先に引用した『わが闘争』の記述は、人種衛生学の主張をヒトラーなりに取り入れたものだったのです。そして人種衛生学者の側も、ヒトラーとナチスに人種衛生学を実践してくれる政党を見出したのでした。
もっとも、一つだけ注意しておかなければならないことは、優生学はなにもナチスのような右翼ばかりに支持されたものではなかった、ということです。当時は社会主義者や自由主義者も、社会改革に科学的基盤を与えるものとして、優生学を積極的に支持していました。また、皮肉なことに、ワイマール共和国時代のドイツの有力な優生学者にはユダヤ人が多かったのです。彼らはナチス政権成立後に職から追われたり、亡命を余儀なくされました。
III. 被告弁護側の反論と、検察側の典拠
米国人検察団の訴追に対し、ドイツ人で構成された弁護団は、次のような論点を挙げて、被告の弁護を試みました(M. A. Grodin, "Historical Origins of the Nuremberg Code," in Annas & Grodin, Nazi Doctors and the Nuremberg Code, pp.121-144, esp. pp.132-133. 当節の記述は主にこの論文を参照しました)。
1. 戦争と国家の危機という状況下では、人体実験によって得られる知見によって軍および市民の生存を図ることは必要である。極端な状況は極端な行動を要求するものである。
2. 囚人を被験者として用いることは世界中で行われている。米国の刑務所で行われている人体実験もある。
3. 人体実験に利用された囚人はすでに死刑が宣告されていた。したがって、実験に用いられ処刑を免れたことは囚人の利益になっている。
4. 被験者は軍の指導者または囚人自身によって選ばれているのだから、個々の医師たちは選別の責任を負えない。
5. 戦時には国民は戦争に協力しなければならない。これは軍関係者でも、市民でも、囚人でも同じである。
6. 人体実験を行ったドイツ人医師たちはドイツの法律だけに従う(したがって米国法では裁けない)。
7. 研究の倫理に関する普遍的な基準は存在しない。基準は時と場所によって異なる。倫理的に問題のある人体実験は世界中で行われており、科学の進歩のためという理由で正当化されている。
8. 医師たちは人体実験を行わなければ生命の危険にさらされたり殺されたりしたかもしれない。さらに、彼らが実験を行わなければ、医師以外のずっと技術の劣った者が実験を行って、もっと大きな危害を被験者に加えていたかもしれない。
9. 人体実験が必要だと決定したのは国家であり、医師たちは命令に従っただけである。
10. より大きな善を生み出したり多くの生命を救ったりするためには、少々の悪や誰かを殺すことが、しばしば必要となる。米国や英国はナチスの人体実験の成果を日本に対する戦いにおいて利用しており、実験が有用であったことは明らかである。
11. 囚人たちは人体実験に参加することに暗黙の了解を与えていた。被験者の不同意を記した文書はないのだから、有効な同意があったとみなすべきである。
12. 人体実験なしには、科学と医学の進歩はありえない。
これらの反論に対し、検察側はA. アイヴィーとL. アレクサンダーという2人の医学者を証人に立てて、人体実験の普遍的な倫理基準が存在したという点にとくに焦点を絞って反駁を行いました。
米国医師会の要請によってニュルンベルクに派遣された生理学者・薬理学者アイヴィー(イリノイ大学医学部)と、米陸軍予備隊大佐で精神科医・神経学者のアレクサンダーは、まず第一に「ヒポクラテスの誓い」を引用しました。「ヒポクラテスの誓い」は紀元前460年から紀元前360年の間に書かれたもので、医師は全力を尽くして患者のために働くことを説いています。しかし、ヒポクラテスの誓いは臨床における医師の心得であって、医学研究を扱ったものではない、という点が問題になりました。アイヴィーは米国医師会が1946年に定めた「人間を用いた実験に関する倫理の諸原理」も引用しましたが、これは1946年以前に行われたナチスの実験には適用できないとされました。
しかしながら、検察側が提出した典拠はこれだけではありません。倫理綱領としてはほかに、T. パーシヴァルの『医療倫理』(1803年)、1833年のW. ボーモントの著作、それに前回の講義で扱ったベルナールの『実験医学研究序説』(1865年) が挙げられました。「医療倫理 medical ethics」という言葉の先駆けとなり、米国医師会の倫理綱領(1847年)のもとにもなったパーシヴァルの著作は、医師は新しい治療法と手術を行うに当たって「健全な根拠と正当な類比と十分に立証された事実に、細心かつ良心的に支配されなければならない」と述べています。しかし、被験者の保護と同意に関しては何も述べていませんでした。これに対し、銃の暴発事故に遭った患者に偶然できた胃瘻から消化作用を観察したことで有名なボーモントは、被験者の自発的な同意が必要なことと、被験者が苦痛を訴えたら実験は中止しなければならないことを強調しています。また、ベルナールは前回見たとおり、被験者に有害な実験は禁じられるべきであり、無害な実験は許されるべきであり、有益な実験はむしろ行うべきであると述べていますが、被験者の同意に関しては、パーシヴァルと同様に、何も述べていません。その他にアレクサンダーは、米国の判例をいくつか挙げています。
ですが、検察側にとってさらに重要なのは、ドイツ国内で当時すでに、政府によって制定された人体実験の指針が存在していたことでした。19世紀末から20世紀前半のドイツ医学は世界的に見て水準が高く、人体実験の倫理的考察に関しても一歩先んじていたのです。
まず、プロシア宗教・教育・医療省が1900年12月29日に「病院・外来診療所その他の医療施設長に対する指示」を出しています。これは主に1892年の「ナイサー事件」をめぐって巻き起こったマスコミや議会や法廷での論争の産物といえます。ナイサー事件とは、ブレスラウ大学の皮膚科学および性病学の教授A. ナイサーが、梅毒ワクチンの実験で健康な4人の子供と3人の売春婦を梅毒に感染させたというものでした。そこでこの政令は「診断・治療・予防接種以外の目的の医療的介入」を、未成年者や無能力者に対して行ったり、明示的な同意や副作用の説明がない場合に行ったりすることを「絶対に禁止」しています。さらに、こうした実験的措置を行うのは施設長本人か特別に許可を得た者でなければならないことや、以上の条件を満たしたことを文書に残さなければならないことを定めています。
また、もっとナチスに近い時代の指針としては、1931年にドイツ内務省が出した「新治療法および人体実験に関する規制」があります。1920年代には、医師の反倫理的行為に関してドイツ医学界に対するマスコミの批判が強まっていました。1930年にF. ミュラーは製薬産業の利益を図る病院を告発しています。また、1931年にドイツ健康局のA. シュタウダーは、幼児を実験動物同様に扱う当時の医学研究を厳しく批判しています。このような空気を受けて、1930年3月にドイツ健康会議は「健康な被験者および患者に対する医学実験の許容性」と題するセッションを設け、ミュラーとシュタウダーを報告者に招きました。さらに、ベルリンの医師で社会民主党の議員であったJ. モーゼスは1930年に、結核ワクチンの実験で75人の子供を死なせた「リューベック事件」を告発する本を著しています。直接的にはモーゼスに促されて、ドイツ内務省は上記の医学実験の指針を作ったのです(ちなみに、ユダヤ人であったモーゼスは1942年に強制収容所へ送られて亡くなっています)。この指針は14箇条からなり、新しい革新的な治療法の実施に先立って可能な限り動物実験を行うこと、緊急の場合を除き、患者本人か後見人が新治療法に関する情報を予め知った上で明示的な同意を与えなければならないこと、被験者が18歳未満の場合は新治療法を用いることが妥当かどうか注意深く吟味しなければならないこと、などが詳しく規定されています。
最後に、ナチス政権下の1933年11月に成立した動物虐待防止法を挙げることができます。この法律は原則として、動物に苦痛や傷害を与える手術や治療、とりわけ冷やしたり熱したり感染させたりする実験を禁じています。この動物虐待防止法によって、1931年の「新治療法および人体実験に関する規制」の動物実験を課した条項は無効になっていた可能性もありますが、動物にさえ残虐な実験を禁止していたのですから、まして人間にそのような実験を行うことが不法であることは明らかであるように思えます。それとも、ナチスの医師たちは、動物でも人間でもない「亜人間」なら、実験に使っても法に触れないと考えたのでしょうか。
IV. 判決とニュルンベルク・コード
(1) 判決と量刑
1947年8月20日に下された判決で、4人の裁判官たちは、訴追第1点の「共同謀議」に関しては、独立した犯罪とすることはできないとして退けましたが、第2点「戦争犯罪」と第3点「人道に反する罪」に関しては全面的に有罪としました。第4点「犯罪組織への所属」については、親衛隊に所属した形跡がない者、選択の余地なく所属した者、および戦争が始まった1939年9月1日以前に脱退した者を除いて、有罪と宣告しました。
その結果、絞首刑が7人の被告(うち医師が4人)に、終身刑が5人に、禁固20年が2人に、15年と10年の刑が1人ずつに、それぞれ言い渡されました。7人の被告が無罪になりました。絞首刑は1948年6月2日にランツベルク刑務所で執行されました。終身刑および禁固刑を言い渡された被告はのちに20年から10年程度に減刑されています。
(2) ニュルンベルク・コード
判決はまた「許可できる医学実験」と題する節で、人体実験の普遍的な倫理基準を明文化しました。これがいわゆる「ニュルンベルク・コード」で、アイヴィーとアレクサンダーの助言に基づいて起草されています。アレクサンダーは1947年4月15日に6つの項目からなる「倫理的な人体実験と非倫理的な人体実験」というメモを法廷に提出しました。これらを参考にした「ニュルンベルク・コード」は、以下のような10項目の内容を含んでいます。
1. 被験者の自発的な同意が絶対に欠かせない。これは被験者が、同意を与える法的能力をもっていること、強制がない状況で、自由な意志で選択できること、実験内容を十分に理解していることを含む
2. 他の方法では得られない、社会のためになる成果が上がらなければならない
3. 動物実験と自然の経過に関する知識に基づいていなければならない
4. 不必要な身体的・心理的苦痛を避けなければならない
5. (実験者本人が被験者になる場合を除き)死や障害をひきおこすと行う前からわかる実験はしてはいけない
6. リスクが利益を上回ってはいけない
7. 適切な準備と設備がなければならない
8. 科学的に資格がある実験者が行わなければならない
9. 被験者はいつでも自由に実験を中断できなければならない
10. 被験者に傷害・傷害・死が生じると予測できる場合、実験者はいつでも実験を中断する用意がなければならない
*参考までに、以下に「ニュルンベルク・コード」に該当する判決文を全訳しておきます。
1. 被験者の自発的な同意は絶対に欠かせない。
これは被験者が、同意を与える法的な能力を持っていること、力や詐欺や欺瞞や拘束や出し抜きなどのいかなる要素の介入も、その他隠れた形の束縛や強制も受けることなく、自由に選択する力を行使できる状況にあるということ、および、理解した上で啓発された選択を行うために、被験者に行われることについての十分な知識と理解をもつこと、を意味している。最後の事柄は、被験者の実験に同意する決断を受け入れる前に、実験の本質と持続時間と目的、実験の方法と用いられる手段、合理的に予想されるあらゆる不便と危険性、そして実験に参加することで被験者の健康と人格に生じる可能性がある影響、が、被験者に知らされているべきであるということを要求する。
同意の質を確認する義務と責任は、実験を開始する者、指揮する者、ないし実験に関与する者すべてに負わされる。これは他人に委ねて罰を免れることはできない個人的な義務及び責任である。
2. 実験は、社会の善ために、他の研究方法や研究手段では得られない実りある成果をもたらすものであるべきであり、本質的に試行錯誤的であったり不必要なものであるべきではない。
3. 実験は、予見された結果が実験の実行を正当化するべく、動物実験の結果と、疾病や研究中の問題の自然の経過に関する知識に基づいて計画されているべきである。
4. 実験はあらゆる不要な身体的・心理的苦痛や傷害を避けるように行われるべきである。
5. いかなる実験も、死や障害が生じると思われるアプリオリな理由がある場合には行われるべきでない。ただし、おそらく、実験を行う医師もまた被験者となる実験を除く。
6. 実験の危険性の程度は、実験によって解決されるはずの問題の人道的重要性に応じた程度をけっして越えてはならない。
7. たとえ遠い可能性にすぎないとしても、傷害・障害ないし死から、被験者を護るべく、適切な準備と設備が整えられるべきである。
8. 実験は科学的に資格のある人物によって行われるべきである。実験を行う者ないし関与する者は、実験のすべての段階において、最高度の熟練とケアが要求されなければならない。
9. 実験の過程において被験者には、実験の続行が彼自身不可能に思われる身体的ないし心理的状態に達した場合、実験を終わらせる自由があるべきである。
10. 実験の過程において科学者は、彼に要求される確固たる信念と高度な技術と注意深い判断力のもと、実験の続行が被験者に傷害や障害や死を招くと思われる理由がある場合には、どんな段階でも実験を終わらせる準備がなければなければならない。
( Trials of War Criminals Before the Nuremberg Military Tribunals Under Control Council Law 10, US Government Printing Office, 1950; Military Tribunal Case 1, United States v. Karl Brandt et al., October 1946-April 1949. Annas & Grodin, The Nazi Doctors and the Nuremberg Code, pp.102-103.)
V. ニュルンベルク・コード以後----国際的なガイドライン
ニュルンベルク・コードは、医学実験に関する最初の国際的なガイドラインになり、世界人権宣言や、1947年に設立された世界医師会の活動をはじめ、多方面に影響を与えました。ここでは紙幅の都合上、世界医師会と、世界保健機構および国際医学研究機関協議会の動きについてだけ、簡単に触れておきます(以下、この節の記述は S. Perley, S. S. Fluss, Z. Bankowski & F. Simon, "The Nuremberg Code: An International Overview," in Annas & Grodin, Nazi Doctors and the Nuremberg Code, pp.149-173 を主に参照しました)。
(1) 世界医師会(WMA)のガイドライン
世界医師会はまず、1948年9月にいわゆる「ジュネーヴ宣言」を出し、ナチスの医師たちの犯罪を非難して、二度とこのような犯罪を繰り返さないように戒めています。ジュネーヴ宣言の中にはとくに医学実験への言及はありませんでしたが、1954年の第8回総会で「人体実験に関する決議:研究と実験関係者のための諸原理」が採択されました。この時期までには、もっぱら非治療的実験のみを扱っていること、被験者の自発的同意を絶対条件にしていること、実験者が被験者になれば死や障害を引き起こす危険性が予見される実験も行ってよいと読めること、など、ニュルンベルク・コードの不十分さも意識されてきています。1954年の決議では、
1. 実験は被験者を尊重する一般的規則に従う、資格のある科学者によらなければならない
2. 医学実験の最初の成果は慎重に公表しなければならない
3. 人体実験を行う際には実験者が第一の責任を負う
4. 健康な被験者に実験する場合は、被験者の、完全に情報を与えられた、自由な同意を得なければならない。患者に実験する場合は、患者あるいは最近親者の同意を得なければならない。実験者は被験者ないし後見人に実験の内容とそれを行う理由と危険性を伝えなければならない
5. 冒険的な手術や治療は絶望的な場合にのみ行ってよい
ということを定めています。
その後1954年から1960年にかけて世界医師会の医療倫理委員会は人体実験の問題の研究を続け、1961年の第15回総会に人体実験に関する綱領の草案を提出しました。これが最終的には1964年の第18回総会で採択され「ヘルシンキ宣言」になりました。
この1964年の「ヘルシンキ宣言」は、ニュルンベルク・コードとは異なり、治療的実験と非治療的実験を区別しました。また、被験者の同意という条件に関しては、「基本原理」には含まれず、治療的実験へのインフォームド・コンセントは「患者の心理に合致し、もし可能ならば」取るべきだとし、法的・身体的に同意できない場合には法的後見人の同意でよいとするなど、かなり甘くなっています(ただし、非治療的実験への同意は文書で行うべきだとしています)。
ヘルシンキ宣言は、1975年に東京で行われた総会で改訂され、人体実験のプロトコルは倫理委員会で審査し承認されなければならなくなりました。また、インフォームド・コンセントがより重視され「基本原理」の中に組み入れられました。ヘルシンキ宣言はその後1983年、1989年、1995年、2000年にも改訂され、現在は第6版となっています。
(2) 世界保健機構(WHO)と国際医学研究機関協議会(CIOMS)のガイドライン
1982年に世界保健機構と国際医学研究機関協議会は「人間の被験者を用いた生物医学研究の国際的ガイドライン案 Proposed International Guidelines for Biomedical Research Involving Human Subjects」を公表しました。このガイドライン案は1976年に構想され、1978年から具体的に練り上げられてきたものです。
このガイドライン案の策定段階で、ニュルンベルク・コードやヘルシンキ宣言で取り上げられなかったさまざまな問題が議論されました。とくにインフォームド・コンセントに関しては、子供や精神障害者や囚人や妊婦や施設入所者など「弱者」の問題や、個人主義が必ずしも普及していない非西洋諸国で大規模な研究や共同体を基盤とした研究が行われる場合の問題が指摘されました。後者についてはたとえば、ワクチンの強制接種、水道水へのフッ素の投与、主食へのビタミン添加など、公衆衛生プログラムの研究においては、多くの人々が一度に被験者となるので、一人ひとりからインフォームド・コンセントを取ることが難しくなります。また、共同体が個人よりも重視される文化では、被験者からインフォームド・コンセントを取ることが共同体の社会的絆を弱めるとみなされる場合もあります。その他、発展途上国において先進国の資金で研究が行われる場合、先進国内で行う場合よりも被験者の人権が侵害されやすいといった問題も出てきました。
そこで、出来上がったガイドライン案は、こうしたインフォームド・コンセントにまつわる諸問題を詳しく分析しています。人体実験は、自由なインフォームド・コンセントに基づき、被験者はどの段階でも中断してよい、という原則に立ちながらも、この原則が場合によっては到達できない目標であることを認めています。そして「弱者」を用いた実験が正当化される条件や、共同体を重視する文化では信頼できる共同体のリーダーが仲介して被験者の同意を得ることなどについて論じています。こうした場合には、被験者のインフォームド・コンセントよりも、むしろ事前の倫理的審査の重要性が強調されています。
また、発展途上国において先進国の資金で研究が行われる場合、ガイドライン案は、資金の出所である先進国で研究プロトコルの審査を受けた後に、実験を実施する発展途上国でも再び審査を受けることを命じています。
さらにガイドライン案は、被験者が実験に参加して傷害を被った場合、完全な補償を受ける権利を主張しています。その場合に被験者は、実験と傷害の因果関係だけ示せばよく、実験者の怠慢や未熟を証明する必要はないとしました。
しかしながら、その他の点では、このガイドライン案にもニュルンベルク・コードの精神は脈々と受け継がれています。その後の議論を経て、1993年に正式版のガイドライン「人間の被験者を用いた生物医学研究の国際的倫理的ガイドライン International Ethical Guidelines for Biomedical Research Involving Human Subjects」が採択されました。
このように、ニュルンベルク・コードは、人体実験の国際的・普遍的な倫理基準の原点として、今日なお重要な意義をもっています。
●今回のテキスト
Ch. プロス/ G. アリ編『人間の価値----1918年から1945年までのドイツの医学』林功三訳、風行社(発売・開文社出版)、1993年、¥2200
1989年5月にベルリンで行われ、その後世界各地でも開催された「人間の価値」展のカタログの抄訳。西ドイツ国内で1980年代にようやく始まったナチス期の医学の本格的研究は、この展覧会の開催によって一つの頂点を迎えました。写真資料が多く掲載されています。
●参考書
米本昌平『遺伝管理社会』弘文堂、1989年、¥1500
ナチスを科学的に支えた優生学および人種衛生学(民族衛生学)の歩みとその今日に対する意味を総合的にたどった本。ナチスの人体実験の思想的・歴史的背景を全体的につかむことができます。
米本昌平・松原洋子・ぬで島次郎【「ぬで」は「木」偏に「勝」】・市野川容孝『優生学と人間社会---- 生命科学の世紀はどこへ向かうのか』講談社現代新書、2000年、¥720
英国・米国・ドイツ・北欧(デンマークとスウェーデン)・フランス・日本の各国における優生学の歴史を振り返り、今日的意味を探る本。優生学の本流は、ナチスのような強制的政策ではなく、むしろ「自己決定」を尊重するものであったことを歴史的に検証しています。優生学・優生思想について語る際の必読文献です。
ベンノ・ミュラー=ヒル『ホロコーストの科学----ナチの精神科医たち』岩波書店、1993年、¥2600
ナチス期における精神医学と人類学の役割を総括し、ニュルンベルク裁判を逃れた医師やその家族たちへのインタビューも行った著作。著者はケルン大学の遺伝学教授。
F. K. カウル『アウシュヴィッツの医師たち----ナチズムと医学』三省堂、1993年、¥4200
ナチスに荷担した医師の告発を1960年代から行ってきた東ドイツの法学者による綿密な研究。1968年に初版が出たようですが、残念ながら冷戦下にあって西ドイツでは黙殺されてしまいました。
E. クレー『第三帝国と安楽死----生きるに値しない生命の抹殺』批評社、1999年、¥8500
「安楽死」計画の本格的研究の嚆矢となった記念碑的著作。その後の安楽死研究は必ずといっていいほどこの本を参照しています。
H. G. ギャラファー『ナチス・ドイツと障害者「安楽死」計画』現代書館、1996年、¥3500
著者は米国人で身体に障害があります。障害者本人の視点から「安楽死」計画に対して考察を加えています。
小俣和一郎『ナチス もう一つの大罪----「安楽死」とドイツ精神医学』人文書院、1995年、¥2400
小俣和一郎『精神医学とナチズム----裁かれるユング、ハイデガー』講談社現代新書、1997年、¥640
現役の精神科医によるナチス期の精神医学告発の書。日本の精神医学にも大きな影響を与えた輝かしきドイツ精神医学が、いかにナチスの医学犯罪に深く関与していたか、わかりやすくコンパクトにまとめています。
George J. Annas & Michael A. Grodin (eds.), The Nazi Doctors and the Nuremberg Code: Human Rights in Human Experimentation, Oxford University Press, 1992.
今回の講義で最も多く参照している文献です。主に米国の一流の研究者たちが、ニュルンベルク・コードの背景と今日における意義を多面的に論じた論文集で、医師裁判の検察側冒頭陳述と判決の一部も掲載されています。
神奈川大学評論編集専門委員会編『医学と戦争----日本とドイツ』(神奈川大学評論叢書第5巻)御茶の水書房、1994年、¥2400
1993年に神奈川大学で行われた上記「人間の価値」展の際のシンポジウム「医学と戦争」の内容が中心になっています。ナチスの医学を、731部隊など日本の戦時下の医学犯罪と比較して論じています。
●練習問題
(1) ナチスの人種主義はどのような点で間違っているのでしょうか?もしナチスの人種主義について、あえて賛成する立場をとるとすると、その理由としてどのようなことが考えられますか?
(2) ナチス・ドイツの医師たちの弁護団が提出した12の論点を検討しましょう。これらの主張に同意できますか?同意できないとすれば、どのような根拠に基づいて反駁できますか?
(3) ニュルンベルク・コードは、人体実験の必要にして十分な許容条件になっているでしょうか?もしなっていないと考えるなら、どのような条文を付け加えるべきでしょうか?また、不必要な条文や内容的に重複している条文を整理してみましょう。