本書は、出生前診断、体外受精、臓器移植、安楽死・尊厳死、遺伝子治療、ヒトゲノム解析、クローニングといった先端医療技術について、市民の立場から批判的に論じている。出生前診断とりわけ「受精卵診断」や体外受精などの生殖技術に関しては「優生思想を問うネットワーク」、「脳死」と臓器移植に関しては「『脳死』臓器移植に反対する関西市民の会」などの団体を結成して実際に反対運動を精力的に行ってきた著者たちによる執筆だけに、学界や行政に対する批判には迫力と説得力がある。さらに、インターセックス(いわゆる「半陰陽」)の方へのインタビューを通じて「男/女」という二分法を問い直したり、ナチス・ドイツの医療政策の再検討を通して「自己決定」という理念の問題点を指摘することで、先端医療批判に厚みを加えている。本書のもととなった原稿はこの『ヒューマンライツ』誌に一九九七年後半から一九九八年前半まで約一年間にわたって連載されていたので、読者にはすでに内容はおなじみかもしれないが、掲載後の動きに合わせて大幅な加筆がなされているため、あらためて買って読んでも決して損はない。
先端医療技術とは「先端」というだけに、まだ十分な安全性が確立されていない、実験的段階にある医療技術である。したがって、それを臨床的に用いるということは、患者および患者になる可能性のある市民を被験者として人体実験をするということである。そこで、先端医療技術を用いようとする医師や医学界は、被験者である市民に向かって、この技術のプラス面だけでなく、危険性などマイナス面についての情報まできちんと伝えた上で、市民による「インフォームド・コンセント」をまたなければならない。こうした手続きを踏むのが人体実験を行う際に最低限守らなければならないルールであることは、ニュールンベルク綱領やヘルシンキ宣言を通じて、すでに世界的に確立されている。
にもかかわらず、先端医療技術のマイナス面については、現在、十分な情報が伝えられているとは言いがたい。臨床応用を急ぐ医師たちは危険性やデメリットについてはきちんと説明しないし、マスコミもそうした医師たちから流される情報をそのまま報道するだけである。たとえば、体外受精は強い副作用を伴い出生率は二割にも満たないこと、臓器提供者とされる患者の救命努力が放棄された実例がいくつもあること、米国では遺伝子治療は効果がないとして見直しの時期に入っていること、ヒトゲノム解析計画やクローニングが製薬産業や国家の利益と結びついていること、ナチスの優生政策や安楽死計画が実は「自己決定」の論理構造に深く関連したものであったこと、などが、どれだけ一般市民に知られているだろうか。こうしたマイナス面の情報をしっかり伝えてくれる点でも、本書の意義は大きい。
また、本書はたんに先端医療技術を批判するだけでなく、先端医療技術の倫理的側面を考察する学問領域である「生命倫理」についても「社会に混乱を起こさずに徐々に技術を浸透させていく役割をしている」(二〇五頁)と手厳しい。この指摘は「生命倫理」の研究者である私には耳が痛い。「生命倫理」の主要な成果の一つであるインフォームド・コンセントの一つの起源は、ナチス・ドイツや米国における非人道的な人体実験に対する歴史的反省に求められる。だが、日本の医学界は、七三一部隊などにおいて数千人もの中国・ロシア・モンゴルおよびコリアの人々を虐殺した人体実験に組織的に関与しながら、まったく裁かれることなく、真相究明や反省もいっさい行っていない。しかも、11月初めに東京で行われた第四回国際生命倫理学会世界会議では、この重大な「日本的事情」に触れた日本人発表者はほとんどなく、そのうえ大会長の坂本百大・青山学院大学名誉教授にいたっては、基本的人権とヒューマニズムの理念を捨てて「和」などの「アジア的心性」に基づいた「地球共同体主義生命倫理」を提唱するありさまであった。中国やロシアや韓国からも多くの参加者を迎えたこの会議で、これほどまでの国際感覚の欠如と「生命倫理」の本質の無理解は、ほとんど犯罪的ですらある。こんな日本の「生命倫理」など、ないほうがましだ。自分の過去の行いを振り返ることのない者に倫理を語る資格はない。そして、戦前・戦中の人体実験の総括を怠っているためインフォームド・コンセントの意義を自覚できず、市民の信頼を得る道を自ら閉ざす日本の医学界にも、先端医療技術を用いる資格などありはしないのである。
(『ヒューマンライツ』第129号(1998年12月10日)、pp.66-67)