(『Human 人権問題ニュース』51号、大阪市立大学人権問題委員会、2010年9月、pp.4-5)
「障害」はどこにある?
──「社会モデル」を優先させるべき理由──
最近「障がい者」という表記を時々見かける。「障害者」と書くと「害」を及ぼす人というように受け取られるからだという。だが「障害」は戦後の漢字制限により広まった表記にすぎず、本来は「障礙(障碍)」(「碍」は「礙」の俗字)と書く。運動会の「障害物競走」を思い浮かべればわかるように、「障害」とは行く手を遮るもの、「バリア」(障壁)という意味だ。バリアは人間の進む道に存在するものであって、人間の側にあるものではない。障害者とは、バリアによって進む道を遮られた人、つまり障害を被る人のことだから、書き換えるならむしろ「被障害者」と書くべきだ。「害」はひどいから「がい」に書き直そうと考える人は、障害は「障害者」の側にあるものと思い込んでいる。
「障害者」とはバリアに遭遇して「できなくさせられた(disabled)人」である。バリアに遭遇するのは、社会の多数を占める人々を想定している社会の仕組みや見方と、その人の身体や心のはたらきやありかたが、合致していないからだ。社会の仕組みや見方と「障害者」のありかたが合致すればバリアはなくなる。そのためには2つの方向がある。どちらの方向からでも、もちろん両方の方向から働きかけても、バリアの解消を目指せる。
第一の方向は、障害者の心身のはたらきやありかたのほうを「トレーニング」や「リハビリテーション」などによって変え、社会の仕組みや見方に合わせようとする。この方向を強調するのが「個人モデル」であり、「障がい」という書き換えに表れていたように、「できない」原因は障害者本人にあるとみなす。個人モデルのうちでも、障害者に特有の心身のありかたやはたらきを異常な状態として「治療」しようとするのが「医学モデル」だ。
これに対して第二の方向は、社会の仕組みや見方のほうを障害者のありかたに合わせて変え、「バリアフリー」な社会を作ろうとする。この方向を強調するのが「社会モデル」であり、障害者が「できない」原因を社会の仕組みや見方の側に求める。
個人モデルに基づく「トレーニング」や「リハビリテーション」、あるいは医学モデルに基づく「治療」は、必ずしも全面的に斥けるべきものではない。自分の努力で何かが「できる」ようになるのは誰にとってもうれしいことだからだ。しかし、障害者でない人々が多数を占める社会は、個人モデルより社会モデルに基づく方向を優先させるべきである。その理由は少なくとも3つ考えられる。
第一に、障害者の心身のはたらきやありかたが、社会の多数を占める人と異なっているのは、障害者本人のせいではない。自分の意思でそうなったわけではないのだから、それを自分で直さなければならない責務はない。「リハビリテーション」や「トレーニング」や「治療」を受けるのは、障害者にとって「権利」でこそあれ、決して「義務」ではない。
第二に、障害者に特有の心身のはたらきやありかたが、それだけで他の人に危害を及ぼすということはめったにない。もしまれに危害になりそうなことがあっても、それは他の人や社会の対応によって十分に防げる。「他者への危害にならないことは本人の自由に属し、社会が強制的に介入できない」というのが、現代の自由主義の根本原理である(J.S.ミル『自由論』)。とすれば、障害者にそのありかたを変えるよう求めるのは、社会が第一にすべきことではない。社会は社会自身のほうをまず変えるべきである。それがひとりひとりの自由を尊重する社会政策というものだ。
第三に、障害者にひたすら自分を変えるよう要求するのは、障害者のありかたを「それではダメだ」と否定し続けることになる。壁(バリア)にぶち当たってなかなか前へ進めないとき、「お前自身のせいだ」と言われ続けたら、人は誰でも、生きることが嫌になってしまう。自分の今の状態や状況を受けとめて「これでいいんだ」と肯定する余裕がなければ、しんどくてやりきれないことがある。おそらく人間にとって、自分のありかたを肯定されること、肯定できることが、生きていく上で一番大事なことなのだ。個人モデルでは障害者のありかたを否定しがちだが、社会モデルでは障害者に「そのままでいいんだよ」という肯定的なメッセージを送ることができる。
……というようなことは、すでに全学共通科目「障害者と人権」(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)を履修した諸君には、言わずもがなのことだろう。1973年に起こった教員の差別発言をきっかけに設けられ、楠さんをはじめとする障害者本人の方たちも大勢講師を務めているこの授業は、本学が世界に誇るべきものの1つである。ますますの充実を願う。