[京都新聞「思想の進行形・生命操作」のための原稿・第一稿【未掲載稿】]

「本人のため」の「自己決定」

土屋貴志

 最近「自己決定(権)」についての議論が盛んである。「自己決定」とは (1) 他者には関連しない「自分自身にのみ関わること」を (2) 他者の指図や干渉や影響を受けずに「自分だけで」(3) 他者ではなく「自分が」決めること、であり「自己決定権」とはこうした自己決定を行う権利のことである。この概念は1960年代後半から、女性が人工妊娠中絶を選択する権利や、治療の決定権は医師でなく患者にあるという主張や、障害者が家や施設から出て「自立生活」を送る運動などを支持し擁護する上で大きな役割を果たしてきた。しかし同じ「自己決定(権)」の論理が、臓器移植や体外受精や遺伝子治療などの先端医療技術の使用を正当化したり、尊厳死や安楽死や自殺を擁護したり、買売春を容認するためにも用いられる。この諸刃の剣をどのように考え、どのように使ったらいいのかが、いま問われている。

 ところで「自己決定(権)」をめぐる議論には、以下の三つの異なる次元の問いが含まれている。第一に《私たちはそもそも「自己決定」しているのか》という「事実」に関する問い。第二に《私たちは「本人の決定をまず尊重すべきだ」という考え方を採用すべきなのか》という「倫理」に関する問い。第三に《ある具体的・個別的な事柄に関して「自己決定権」を制度的に保障すべきか》という「法および政策」に関する問い。第二の問いと第三の問いを区別することは「自己決定の尊重」と「自己決定権」の違いを明確にすることでもある。

 これら三つの問いに対する私自身の現時点の回答は、事実に関する問いに対しては「ノー」倫理に関する問いに対しては「イエス」そして政策に関する問いに関しては「ケース・バイ・ケース」というものである。つまり、こういうことだ。

----他者にまったく関連しないことというのはほとんど存在しないし、他者の影響を受けずに決めることはまずないから、私たちは厳密な意味では「自己決定」していない。だが、他者から影響を受けつつ他者のことを慮って決めたからといって、本人の決定を尊重しなくていいということにはならない。その決定の結果に一番関わり合いがあるのはやはり決定した人かもしれないからである。したがって、他者が本人のことをいかによくわかっていようとも、原則としては本人の下した決定をまず尊重すべきである。しかしながら、この「自己決定の尊重」は一般的な倫理として採用すべきだということであって、「自己決定権」として制度的に保障すべきかどうかは、それが何に関して、どのような文脈から求められ、どのような結果をもたらすのかを慎重に見定めた上で、個別に決めるべきである。尊重すべき自己決定をみな権利として保障することは、かえって自己決定の尊重を形骸化させたり、他者との必要な関わりをむやみに断ち切ったりすることにつながるかもしれないからである。----

このような私の立場は「自己決定」はフィクションなのだと自覚しつつ「自己決定尊重」の倫理をいわば戦略的に採用すべきだ、という立場である。

 では、なぜ「自己決定尊重」の倫理を戦略的に採用すべきなのか。それは、他者が「本人のために」決めてよいとするあからさまな「恩恵」主義は押しつけがましいし「みんなのためを考えて決めよ」という共同体主義は息苦しいからである。他者との協調と共同体への帰属を強調する傾向がもともと強いこの国において、人はさまざまなしがらみに縛られ、力を奪われ、中には生きることを否定されることすらある。自己決定尊重の倫理は、このような状況の中で、しがらみを断ち切り、決定を下す人を一人前の大人として力づけ、自己肯定に導くという機能を果たす。すなわち、自己決定尊重の倫理は基本的に、抵抗や解放の原理として、人を自由にし力づけるときに、その本領を発揮する。

 もっとも、以上のような私の自己決定尊重主義は、あらゆる本人の決定を絶対視しそれに従うべきだという立場(自己決定絶対主義)ではない。私の立場は、本人の決定を「原則として」尊重すべきだ、ということであり、さまざまな要素を考えた上で最終的にこの本人の決定は「不適切なプロセスによって下された決定」なので尊重できない、と結論することを妨げるものではない。その際この結論は、自己決定倫理とは別の倫理的原理によって根拠づけられるのではなく「この決定は『歪められた自己決定』だから不適切であり尊重しなくてよいのだ」という形で根拠づけられる。たとえば、実験段階にある危険な先端医療技術への同意は「不適切な情報を与えられ」「医師の権威に圧倒された」決定、売春の自己決定は「経済的に強いられ」「将来の社会的スティグマなど重要な情報を考慮に入れていない」決定、自殺の自己決定は「うつ病などの病的な心理状態」による決定、と、それぞれみなされるかもしれない。

 しかしながら、自己決定尊重の倫理は自己完結できない。自己決定尊重倫理は「自己決定をまったく放棄する」という自己決定は決して尊重しない。なぜなら、自己決定をまったく放棄するという自己決定を尊重することは、自己決定尊重倫理そのものの基盤を内側から突き崩すことになるからである。自己決定尊重倫理はその根底に「自己決定せよ」というまぎれもない他者決定、すなわち「自己決定できない人は自己決定できるように育てるべきだ」という教育的な他者決定を含んでおり(その意味で自己決定尊重倫理は本質的に教育的な倫理である)、この他者決定が正当であるという前提の上に成り立っている。だから、自己決定尊重倫理にできるのは、この「自己決定を放棄するという自己決定」をひたすら「不適切なプロセスによって下された歪められた自己決定」として却下することだけである。いくらこの決定が適切なプロセスに従って下されたように見えたとしても、そのことをけっして認めないが、それがどうしてかは説明できない。それを説明することは、自己決定尊重倫理がじつは何か別の倫理に基礎づけられている、ということを認めることになってしまうからである★1。

 しかし、なぜ「自己決定させる」「自己決定を育てる」必要があるのか。一つの説明としては、それが最も「本人のためになる」からである。自分のことは自分で決めさせれば、その人はしがらみから自由になり、一人前の大人として力づけられ、自分を肯定でき、かくして一番本人のためになるからである。そうすると、自己決定尊重倫理は結局「本人のためになるようにせよ」という恩恵倫理に基礎づけられていることになる(ここで「本人のためになるようにせよ」という恩恵倫理を根本的原理とする立場を「恩恵主義」と呼ぶことにする)。だが、この恩恵主義は、いつでも他者が本人のためになるかどうかを判断して決めるべきだ、という、あからさまな恩恵主義ではない。そうではなく「本人のためになるようにせよ」という恩恵倫理を根本原理としながらも、本人に決めさせることがたいていの場合一番本人のためになるがゆえに、自己決定尊重倫理を二次的な規則として立て、本人の決定を原則として尊重する、控えめな恩恵主義である。これを「間接恩恵主義」と呼ぼう★2。

 この間接恩恵主義の立場では、自己決定絶対主義ならば尊重してしまうような「本人のためにならない」自己決定(愚行)は、根本原理である恩恵倫理に反するので尊重したくない。だが、間接恩恵主義は、そうした「愚行」を尊重しない理由として「本人のためにならないから」とは言えない。そう言ってしまったとたん、間接恩恵主義はその控えめな衣を脱ぎ捨て「本人のためになるかどうか」を唯一の基準にしてあらゆるケースを判断する直接恩恵主義になってしまう。だから、自己決定尊重倫理を原則として立てる間接恩恵主義は、本人のためにならないような自己決定(愚行)を尊重しない理由として「本人のためにならないから尊重しない」とは言わずに「不適切なプロセスによって下された歪められた決定だから尊重しない」と言い続ける。そうすれば、間接恩恵主義は一見したところ自己決定尊重主義として振る舞い続けることができる。

 かくして、自己決定尊重倫理は、実のところ恩恵主義に基礎づけられているらしいことが明らかになった。すくなくとも「自己決定尊重倫理を戦略的に採用すべきだ」という私自身の立場は、じつは「自己決定尊重倫理を採用することが一番本人のためになる」という間接恩恵主義にほかならないようである。

★1 J. S. ミルは『自由論』において、奴隷になる自由、すなわち自由をまったく放棄する自由は認めていないが、その理由は示していない。J. S. Mill, On Liberty, Chap.5, paragraph 11.

★2 あるいはこれを「規則功利主義」になぞらえて「規則恩恵主義」と呼んでもいいかもしれない。ひとたび「自己決定の尊重」を規則として立てた後は、個々の行為の是非はこの「自己決定の尊重」という規則に照らして判断されるのであり、直接に恩恵原理に照らして判断されるわけではないからである。これに対して、つねに「本人のためになるかどうか」を他者が判断して決め、本人には原則として決めさせないあからさまな恩恵主義を「直接恩恵主義」と呼んでおく(あるいは「行為功利主義」になぞらえて「行為恩恵主義」と呼んでもいいかもしれない)。
 自己決定絶対主義は「自己決定尊重主義」の極端な形態である。間接恩恵主義は、恩恵倫理を原理としながらも自己決定を尊重するので、恩恵主義と自己決定尊重主義の両方の性格をあわせもっている。
 恩恵主義は他者である本人の利益を慮ることによって、また自己決定尊重主義は他者である本人の決定を重んじることによって、どちらもがんらい他者との関係性を重んじる倫理的立場である。これに対し、自己決定絶対主義は、本人の決定を絶対化することによって、しばしば他者との必要な関わりまで断ち切ってしまう個人主義的な志向を持っている。