香山 きょうは大阪市立大学の土屋貴志先生にお話をしていただきます。
実は私、先生の「『ささえあい』の人間学」という著書を読ませていただいて感激しまして、ぜひゆうゆうのガイドヘルパー研修会ででお話していただきたいとお願いしました。
土屋 はじめまして、土屋です。
この本を書いたのはかれこれ6、7年ぐらい前ですが当時は私は障害者のことはほとんど知りませんで、そのあといろいろかかわりが出てきたのですが、そのときには何をやっていたかといいますと病院ボランティアと、家族や友達を亡くした方の悲しみの分かち合いのグループをお手伝いしておりました。そのあたりの体験をふまえて本にしたのですが、おととしぐらいから障害者運動の方に多少かかわりができてきましたがそれでも私が知っていたのは主に身体障害の方でして、知的障害の方のことはほとんど知らなかったわけです。
今回香山さんと和田さんが私のところへいらっしゃったのがいい機会だと思いまして、先週枚方パークへ一緒に行ってきたのですが気がついたことやこれから勉強になりそうだなということがたくさんありまして、むしろこれから初心者マークをつけてゆうゆうのガイドヘルプ活動のお手伝いをできるかなというくらいのものですから、こちらこそよろしくお願いしますというところです。
なんのお話をしようかと香山さん、和田さんと相談したのですが、具体的なタイトルとしては「自己決定を育てるムジュン」というふうにレジメには書きました。どういうことかといいますと、自立生活運動ということで障害者の方が一人暮らしをする、町へ出ていく。その場合「本人が自分の意志で決定していくのだ。当事者が主体となって動いていくのだ」ということは、スローガンとしていわれるのですが、実際には活動の中で、特にゆうゆうの場合にはメンバーの希望が具体的に出てきてきますね。甘栗屋さんの前に止まったら、甘栗が買いたい、おもちゃやさんの前に来たらおもちゃがほしい、という希望がある。けれどもきょうの目的は枚方パークへいって遊ぶことだ、という場合に、個々の意志というか希望にすべて応えていくことがメンバーのためになるのかというあたりですね。
メンバーさんのためといいましたが、これが自己決定とか当事者主体ということとある意味で裏腹な関係になるのではないか。自己決定、当事者主体というならば、メンバーさんのしたいようにさせるのが一番いいのではないか、という考え方もあるわけですね。だけど、実際の場面ではなかなかそうはいかない。なぜそうできないのか。そうしないことが自己決定ということと矛盾しているのか、ということです。
ここで私が考えてみたいのは、むしろ「自己決定」といわれるものはどういう背景で、どういう目的で、どうとらえていけばいいのかというひとつの考え方です。哲学の人間というのはどっちかというと考え方とか、言葉にこだわるほうでして、自分の生活のなかでやっていることが、ある言葉とか考え方でとらえられたときに、わかったような気になるというか、ひとつ世界が広がったような気がするというようなことがうれしくてやっているというところがありますので、ちょっと理屈っぽくなるかもしれませんが、ご容赦下さい。
では、レジメに沿っていきますが、
1.「自己決定」という理念
これは「自己決定」って結局どういうことかということです。さきほどいいましたが、自立生活運動のなかで自己決定ということが表面に出されてくる。広い話でいいますとこれは必ずしも障害者の自立生活運動だけではなくて、私の専門は「医療倫理」なんですが、医療倫理学の中でも医者が決めるのではなくて患者が自分で決めていくという、「自己決定」ということがいわれるようになってきた。それはどうしていわれるようになったか、それで何をしようとしているのか、ということをまず考えてみたいと思います。
これは、「本人のため」という名目で、施設とか医療とか、あるいは友人とか家族によってまで、お仕着せとか強制とかが行われてきたということの告発、というか反省があります。なぜそれがいけないのかと考えた場合、理由は2つほどあります。
(1) ひとつは、本人のそうしたいという意志があるにもかかわらず、それを無視しているのだということ。つまり本人がいやいややらされているのだとうことがあります。だから、自己決定ということで本人の意志を尊重していこうということです。
(2) もうひとつは、より深刻な弊害として、本人が自分の意志をもたなくなってしまうということがあります。「これがいいんでしょう」といって与えられていくことによって、なにがいいのかということがわからなくなってしまう。自分で選べなくなってしまう。自分の意志が育たなくなってしまう。
おもにこのふたつの理由があるのではないかと思います。
それで自己決定ということが前面に押し出されてきたのではないかと思います。これはとても大事なことですが、しかし、自己決定だ、全部本人の意志にまかせればいいのだ、というと、そこに何か落とし穴があるのではないかということも考えておかなければいけない。
たとえば、3つほどあります。
(a) 本人の意思がはっきりしない人は決められない。
強制やお仕着せをやられていると本人の意志が育たないということとも関係がありますが、生まれてこのかた自分で決めたことのない人とか、選択というものを許されたことのない人は、自分がどうしたらいいのかわからない。いきなり「君のしたいようにしていいんだよ」といわれても困ってしまう、ということがある。まあ、ここには介助者が本人の意志を読み取れないという問題も考えておかなければいけないのですが。
(b) 本人の意志ははっきりしている。しかし、これをそのままやらせてしまっては明らかに他人や本人によくないことが起こる、という場合もあります。そういう場合には、いくら自己決定、当事者主体といってもそのまま決定通りにすることはできなくなる。そのうちのひとつとして他者に明らかに危害が及ぶ場合、そうする自由は認められないということがあります。これは障害者に限ったことではありません。健常者でも当たり前のことなのですが、他者に危害が及ぶことをする自由は認められていない。これは19世紀にミルという人が自由ということを主張して、それが現代の社会の根本的な原理とされてきた中にすでに含まれていたことでもあります。
・ですが、次に、他者には危害が及ばないけど、本人だけに危害が及ぶことならやってもいいか。これは非常にむずかしい問題です。一番極端な例では自殺ということがあります。自殺は自己決定とか当事者主体という場合に一番極端な、難しい問題として出てきます。つまり、自分の命を自分で処分する自由があるはずだという考え方も一方ではあるわけです。
それから、たばことか、酒。あるいはミルの時代からいわれているのですが、自分が誰かの奴隷になりますということで自分の身を売るという自由があるのか。同じような例として、単純売春ということも含まれます。貧しい国では、臓器、例えば腎臓とか、角膜を売るというようなこともあります。これらの例については自分で意志をもっていて人に迷惑がかからないならばやってもいいじゃないかという議論もあるのです。
ただそのときに、本当に他者に危害が及んでいないのかどうか。例えば自殺とかいう極端な例に対しては、実は身内とか回りの人とかに危害が及んでいるのだという反論も出されます。だけど危害が及ばなくても迷惑が及ぶんだということになると、今度は本当に好きなことができなくなるということもあるわけです。ゆうゆうの活動でも、メンバーさんが他者に迷惑をかけてしまうことはある。しかし、そういうことはだめだ、ということになると今度は外に出ていけないことになってしまう。これは両刃の刃で難しいです。
・もうひとつ、危害が及ぶかどうかを本人が見通せているかどうか、生ずる結果に対して責任を取る覚悟があるかどうか、ということ。これも自己決定を認められない理由になるわけです。「自己決定」という言葉は英語でいえば autonomy ですが、これを「自律」と訳すこともあります。自律とはどういうことかといいますと、結果がどうなるかを見通した上で自分のすることを決め、その結果に責任をもつということです。そうすると責任を取れない人には決めさせられないという理屈が出てきます。
でも、決めさせないといつまでたっても見通しが立たなかったり、後始末をしたりするようにはなれないという面もあるわけです。どうせわからないだろう、どうせ責任が取れないだろうということで自己決定をさせないでいると、かえっていつまでたっても自己決定ができないということになってしまいます。
・それから、レジメには書き落としたのですが、自分のやりたいことを決める場合、どういうことの中から決めるかというがあります。例えば食事でいいますと、食わず嫌いというのがある。われわれは自分のしたいことを選ぶ場合、たいがい自分の体験したものの中から選ぶわけです。やったことのないものは楽しさもわからない。でも、いつも安全な、体験したものの中から選んでいたらなかなか体験の幅が広がりません。例えば、私が今回、知的障害者の総会で話をするということにしても、私は知的障害者のことは知りません、ということで引き下がっていたとしたら、ゆうゆうの世界はのぞけなかっただろう。のぞいてみればこれはすごく勉強になりそうだなということがわかったのですが、のぞいてみないとわからないわけです。
同じように、ゆうゆうの活動のなかでも、行ってみないとわからない、やってみないとわからないということがあるわけです。そういうのが「あたえられる」ことが多い。私も香山さんから電話がなかったらこの場所に来なかったでしょうし、はたらきかけていただいてこういうところにかかわりが出てくる。ですから、好きなことというのは必ずしも自分だけで決めているわけではない。
◎「自己決定」という理念はひとつの前提があって、それは自分の意志というのははっきりもっていて、その中から自分のしたいことを選べるくらい豊かな体験をもっていて、自分がこれをすればこうなるだろうという見通しがきいて、責任が取れるという「完成された人間」が、一人で生きていくというのを念頭においているのです。だけど、そういう「自己決定」だけを推し進めていくといろんな問題が出てくるわけです。
・そもそも、われわれはそんなに「完成された人間」なのだろうか。これはメンバーさんに限らず、私にしてもだれにしても、経験豊かで自分の意志がはっきりしていてその結果に自分一人で責任が取れるのかというと、決してそんなに「完成された人間」ではないだろうと思います。
・それからもうひとつ、私達はひとりひとりばらばらに生きているのではないということです。さっきも言いましたように、自分の意志というのは自分一人で決めていくわけではないのですね。むしろほかの人とかかわっていく中で、ある選択肢が示されてきて、その中から選んで決める場合にも、私がこれをやったらどうだろうな、と他の人の意志も配慮しながら決めていく。つまり、回りとのかかわりの中で自分のしたいことを決めているのではないか。それでまずい結果が出た場合にも、自分だけで責任を取るというのではなく、いろんな人に面倒をかけながらやっていく。それが自己決定というもののほんとうの姿なのではないかなと思います。
●そういう目で「自己決定」とか「当事者主体」と言われることの意義を考え直してみると、例えば、行政がお仕着せをしてくる場合に対抗するスローガンとして「ひとりひとりの意志を尊重しろ」と言いたい。そのときに「自己決定」というのがいい看板になるわけです。
それからもうひとつは、「自分の意志で決めるようにさせていこうよ」というふうに、自立する人を育てる場合の、広い意味での教育のスローガンとして「自己決定」というものがある。このふたつだと思います。それ以外の目的に「自己決定」というものをもってきてしまうと、ちょっとまずいという場合が出てきます。
※ただ、自分で決めるようにさせる、といった場合、そうさせるのは当然本人ではない。まわりが本人をもりたてていくという、つまり「自己決定」するように他者が場面を設定していくという、逆説があるのですが----。
このように、「自己決定」というのはお仕着せ強制に対するスローガン、ひとつには人を育てるスローガンというふうにとっていけば分かりやすいと思います。
2.
以上が、きょうの話のポイントですが、あと、ゆうゆうのガイドヘルプを一度だけですが見てみて、「自己決定」ということとからめてどうとらえていったらいいかということを少しお話します。知的障害者のガイドヘルプ活動としてははゆうゆう以外のを見たことはないのですが、ここには「育て合い、育ち合い」というものがあるように思います。
誰を育てようとしているかというと、3つあると思います。
(1) メンバーの方を育てようとしている。日常の生活上のお金の使い方とか、日常のこまごまとした、本来自分でやれといわれること、靴下をはくとかそういうことも含めて、そういうことを自分でやっていくための「基本的支援」。あるいは豊かな人間関係を作っていくというような、かかわり合いの部分、つまり「人間的支援」。この両方の部分でメンバーが育っていく。
(2) でも、メンバーだけを育てようというのがゆうゆうのガイドヘルプではなくて、ヘルパーさん、親御さん、スタッフも含めて、育てられていこうというところがある。人とのつき合い方、世の中の見方なども含めて、これは主に人間的支援に当るのかなと思っています。
(3) さらに、大事なことですが、社会を育てていかないとしょうがない。社会のほかの人たちにわかっていってほしいこと、行政とかその他もろもろの社会システムがこうなってほしいということがあります。こういう部分も育てようとしてしているんじゃないだろうかと思います。
また、どういう方向に育てていこうとしているのかというと、
(1) (2) メンバーとしては「自己決定」をしていく、多少なりとも自分で自分のことを決めていく、そういう人間に向かっていくように、ヘルパーさんとか親とかスタッフは、メンバーの自己決定を支えていくとか、社会参加を助けていくことによって、自分としてもどういう人でもわけへだてなく尊重できる人になっていくし、世の中のこともわかっていくように、メンバーとヘルパーに共通していえることは、自分にとってなにがだいじかということがわかって、他者と豊かにかかわっていくことが目的なんだろうかと感じました。
(3) また、社会を育てる方向としては、いわゆる「知的障害者」とレッテルを貼られた、社会から隔てれれた人が、どういう存在であって、どういうふうにつきあっていけばいいのかということを知ってほしい。それから、知的障害者といわれる人の意志とかニーズとかに対して、せめて健常者に対すると同じくらいに行政は応えてほしい。そして、世の中として最終的には、どんな人であっても見下さないし、へつらわないように。へつらうということは見下すということとセットになっていますから、そのどちらでもなく、どういう人でもその人となりを尊重していく。そういう世の中を目指しているのかなと思います。
●最後に「『ささえあい』の人間学」を紹介していただきましたので、その中で私の書いたことをちょっとだけ挙げてみます。
実際にガイドヘルプに入るときに、どういうような指針、というかポリシーを立てればいいのかということなのですが、まず基本的にはその人と共感する、いい関係が保てる、相手のことがわかっていて、相手もこっちのことがわかっているという関係ができればいい。
(1) それを念頭において、そのためにはヘルパーさんはメンバーさんにメンバーさんはヘルパーさんに、相手に積極的にかかわってほしい。
(2) それから相手の可能性を見切らない、もっとできるはずだというあたりを信じていけばいい。
(3) そして、最終的には、その人のことはその人のことというか、私はサポートはできるけれども抱え込むことはできないのだ、という気構えがあればいいのではないかかと思います。
ただし、これは障害者運動を念頭において考えたものではないので、私自身の中でも少し考え直していかなければいけないと思っているところではあります。
あとは質疑応答に回したいと思います。(拍手)
香山 ありがとうございました。先生のお話をもとに日頃皆さんが迷っていることとか、もやもやしているところとかありましたらこの機会に出していただいて、先生をまじえて一緒に考えたり、先生からアドバイスをいただいたりしたいと思います。
長沢 ゆうゆうの活動では支援ということをいいますが、支援だけではすまない点も出てきますし、どの辺までが支援でどの辺から指導なのか私自身も判断がつかないのですが。
土屋 その場合長沢さんご自身がお考えの「支援」というのはどういうもので「指導」というのはどういうものなのですか。
長沢 本人さんもわかっていて本人の判断がつくようにもっていけば支援になると思うのですが、本人さんが新しいことにぶつかったときに本人さんだけで判断がつかない場合はどうしても教えるという形になって「指導」ということになるのではないかと思うのですが。
土屋 なるほど。本人さんが新しいことにぶつかった場合、教えるということは「指導」になると。そのへんの言葉の問題というのは難しいのですが、私の考えではそのむしろ「支援」とか「指導」とかいう分け方を考え直してみたらどうかなと思うのです。教えるといってもいろいろあって、問題はその中身だと思うんです。本当に微妙で、押しつけになっていないかなということは考えていかないといけないと思います。
金 「自己決定」ばかりやっていると、しまいに自己中心になるのではないかと思うのですが、どこが違うのでしょうか。
土屋 まわりのことを全然考えないような「自己中心的な自己決定」はまずいだろうなということです。だけど、そもそもここまでは自己決定、ここからは自己中心というのではなくて、私達は、回りの人のことを全然考えないで自分のことを決めるということはあまりしてないんじゃないかと思います。だから、まわりも大事、自分も大事ということをはかって選んでほしいなということです。
ジュースを買いたいといったら「はい、ジュースね」というんじゃなくてジュースとジェットコースターにのるのとどっちが大事かなという、そういう手助けもしてほしい。チョコレートを食べたい、だけど食べると歯が痛くなる。そういうことも考えてどっちかな、やっぱり歯が痛いのはいやだなということでチョコレートはたまにしか食べないようにしよう、という形で決めていくわけですね。そういう決め方がたぶん自分を大事にするということだろうなと思います。
香山 例えば町を散歩していてメンバーさんが自動販売機でジュースを買いたいといったとき、ヘルパーさんの役割といしたらどうすればいいのでしょうか。
土屋 それはすごく難しいですね。場合によってはジェットコースターに乗れなくてもいまジュースを飲みたいのだということもあると思いますね。「どうしてもほしいのね」というところまで確認をとれば、あとは仕方がないのではないかと思いますね。ただ、そこを確認を取らないで、「あ、ジュースね」とか、「ジュースはあかん!」ということではなくて、もうすこしからみあってつきあったらどうかという気がします。難しいですね。
吉田 現在目に見えるものしか本人はわからないのではないかと思います。「歯が痛くなる」とかさきのことはわかりませんから。私はもう少しやり合いたかったけれども、現実は回りの状況に負けてしまって当人の強い意志に引きずられてしまうということがあります。
土屋 それはよくわかります。答がないのですが、人によってここまではいいじゃないかというような幅が違いますから、気持ちとしてはこれはあかん、これはいいというんじゃなくて、もっとがんばるというかつきあうことができたらなと思います。
香山 みなさんに聞きますが、一緒に考えて下さいね。私は唐揚げが大好き、唐揚げばかり食べていました。そうしたらヘルパーさんが横から「唐揚ばかり食べたらだめ、野菜も食べなさい」といいました。どうしますか。
金 野菜を食べなさいと言ったら食べますけど、いやだというひともいてるでしょう。無理やり食べさせるのはよくないと思う。
ヘルパー 私も無理やり食べさせるタイプじゃないので、そんなに食べさせたくないのなら初めから唐揚げをたくさん目の前におかないでほうがいいと思います。
吉岡 好き放題に自分のやりたいことがやれるというのが一番いい生活なんだろうかという気はしますね。
香山 私は唐揚げが大好きです。きょうもあしたもあさっても唐揚げを食べます。どうですか。好きなもの食べているんだから人に迷惑をかけてないんだからいいでしょう?北山さんどうですか。
北山 体にわるい。
金 そうそう。そんなんばかり食べてたら体に石ができる。おなかをこわす。
土屋 うーん、こうしていろんな意見を聞くと、お腹をこわすまで唐揚げを食べたらどうかという気もしてきますね。自己決定というのはそういう部分ももっていてすごく難しいんです。一方で、人が心配する、人の迷惑になるということは、そもそも自己決定できることじゃないかもしれない。その範囲を出ているかもしれない。だけど、もう一方で、自分でわかるまでほっておこうというのもありますね。実際にはいろんなやり方があります。答がひとつというわけではないですね。
香山 「指導」というのがいけないことだというのが根底にあるのかなとも思うのですが、私達がメンバーさんに寄り添うときいろんなやり方があって、わからないことは教えて上げなければいけないだろうし、友達のように一緒に喜んだり悲しんだりということもあるだろうし、要は先生がおっしゃったように中身だと思うんです。食べ物に限らずいろんな場面でむりやりというときもあるのですが、そのへんはいかがでしょうか。
土屋 結局最終的に何がいいのかというのは実際にはわからなくて、答はないのですが、ヘルパーさん側に、これは自己満足かもしれないなという気持ちがあることが大事であって、これでいいんだと思ったら終わりだということですね。それともうひとつ、「自己決定」という言葉を使ってどんどんかかわりを切っていってしまってはつまらないだろうなということです。まとめるとそんなことでしょうか。
(月川至・香山よしの編『支え支えられる社会へ----ゆうゆう知的障害者ガイドヘルプから見えてきたもの』たびだち地域センターゆうゆう、1997年、pp.8-14. 講演は1996年4月14日午後3時〜4時半、大阪市生野区、KCC会館にて)