1.「現実のトピックに即して」とは?

 倫理学(道徳哲学)的探究の最終的な目的は、現実の世界(人間の行為を含む)のあり方や成り立ちや行く末について説明する(現実の世界を対象化し、観察し、記述する)ことにあるのではなく、現実の世界の中での「実践」(各人が「いま、ここで」すべき[よい、しなければならない、etc.]行為をすること)にある(1)、と筆者は考える。その意味で、単に「応用倫理学」のみならず、倫理学全体が、何らかの形で「現実のトピックに即」せざるを得ない。つまり、最終的には、応用倫理学は倫理学そのものにほかならないし、倫理学とは応用倫理学であるほかはない。

 しかしながら、ひとくちに「現実のトピックに即して」倫理学的探究を行うといっても、そこには少なくとも3つのあり方が含まれている。もっとも、この3つのあり方はあくまで理念型であり、実際に行われている倫理学的探究は、どれか1つのあり方だけではなく、いくつかのあり方が混合していることが多い。

 第一に、「現実のトピック」で提起されている「倫理的問題」への回答を試みる、というあり方がある。これは、その問題を「解決」し、当事者の「役に立つ」ために、倫理学に蓄積されている資源(リソース)を使う、ということである。目的はあくまでも「現実の問題の解決」であり、倫理学的探究はそのための手段である。いわば、倫理学を問題解決の道具(ツール)として使う、というあり方だ。その意味でこれは「現実のための(for)倫理学的探究」といえるだろう。医療倫理学でいえば、脳死状態患者からの臓器摘出を可能にするために人間の生命の価値について考察するとか、薬害を防止するために医薬品の審査が従うべき倫理的原理を明らかにする、といったことがこれにあたる。

 第二に、それとは逆に「現実のトピック」のほうを倫理学理論の彫琢のための資源として用いる、というあり方がある。この場合、目的は倫理学理論をより包括的で洗練されたものにすることにあり、「現実のトピック」はそのための「試金石」として用いられている。直接的に「現実の問題」を解決することが目指されているわけではなく、「現実の問題」は倫理学理論を検討するための思考実験の「ネタ」として引き合いに出されるだけである。「現実における(in)倫理学的探究」は、実はこのタイプのものであることがしばしばある。たとえば、人間の生命の価値について考察するために脳死状態について論じるとか、普遍的な倫理的原理とは何かを検討するために薬害の実例を引く、などである。

 第三に、「現実のトピック」が提起している「倫理的問題」そのものを分析し問い直す、というあり方がある。これは「現実的問題」を解決するために倫理学を利用するのでも、倫理学理論の探究のために「現実的問題」を利用するのでもない。むしろ、その「現実のトピック」とはいったいどういうことなのか、そこで世間一般に提起されている問題がそのように提起されるのはなぜなのか、などと問うことで、その「現実的問題」をいったん棚上げし対象化して、より適切な問題の捉え方がないか(「真の問題」は何なのか)を追求していく。いわば「現実についての(of)倫理学的探究」である。そこにおいては、世間一般でいわれる「倫理問題」そのもの、さらにはその倫理学的探究自体について、倫理学(道徳哲学)的に、メタレベルの探究がなされる。たとえば、そもそも脳死状態が人の死であるかどうかが問題にされるのはなぜなのか(つまるところ動いている心臓を取り出さなければ心臓移植ができないという技術的問題を回避するためではないか)、薬害を生じさせてしまう薬事行政や医療の構造(製薬企業寄りの行政、新薬に期待してしまう患者、医学的権威の言説を批判的に分析できないジャーナリズムなど)こそ問題ではないか、などと考えていくことがこれにあたるだろう。

「現実のトピック」とは、実際に起こった出来事や問題になっている事柄をそっくりそのまま丸ごと記述したものではありえない。出来事や事柄のあらゆる細部をそのまま言語化して記述することなど不可能である。「現実のトピック」として記述されたものは必ず、記述者の視点から、必要と思われる側面を取り出して、自分にも他者にも理解できるように構成されたものである。それは「語り(narrative)」であったり「物語(story)」であったり「事例(case)」であったり「歴史(history)」であったりするが、いずれも、ある視点から必要に応じて構成された「はなし」である以上、別の視点と必要性によって構成し直される可能性はつねに開かれている。だからこそ、「現実のトピック」をいったん棚上げして問題の捉え方を検討するメタレベルの探究は非常に重要である。

2.倫理学の構成

 このように、「現実のトピック」とどのように関わるかに着目して倫理学的探究の3つの類型を取り出してみると、それぞれに対応して、倫理学自体の構成も描き出せるだろう。

 第三のあり方、すなわち「現実についての(of)」メタレベルの探究は、「現実のトピック」の倫理学的探究についての探究ということから、倫理学(道徳哲学)についての哲学、つまり「広義のメタ倫理学」(倫理学基礎論)を含意するといえる。これにはもちろん「〜はよい/わるい」「〜すべきだ/すべきでない」「〜しなければならない/しなくてもよい」等の規範的(倫理的、道徳的、価値的、当為的)な言葉は何を意味しどのように使われているのかという「狭義のメタ倫理学」(規範言語についての分析哲学)が含まれるが、それだけでなく、倫理学(道徳哲学)とはそもそも何か、倫理学はいかにして成立しうるのか(たとえば、道徳的であるとはどういうことか、なぜ道徳的でなければならないのか)などの問題も含め、倫理学の基礎に関わる問題一般の探究からなる領域である。

 第二のあり方、すなわち「現実における(in)」倫理学的探究は、倫理学の「理論」の構築を目指すという意味で、「理論倫理学」に含まれる。理論倫理学は、「現実のトピック」について論じないというわけではない。ただ、理論倫理学では、「現実のトピック」を論じる直接の目的が、その「現実の問題」の解決なのではなく、倫理学理論を彫琢することにある。もちろん、倫理学理論を可能な限り彫琢した後には、それを用いて「現実の問題」における「正しい」(2)行為を指示したり根拠づけたりすることができるが、それは理論倫理学的探究というよりは、むしろ理論倫理学の成果を用いた(以下に述べる、狭義の)応用倫理学的探究である。

 そして、第一のあり方、すなわち「現実のトピック」で提起されている「倫理的問題」への回答を試みることが、狭い意味での(いわゆる)「応用倫理学」ということになる。倫理学は最終的には現実の世界の中での「実践」を目指すのであるから、この「狭義の応用倫理学」は倫理学的探究の最終的な局面に位置することになる。

 ただし、倫理学基礎論(広義のメタ倫理学)も、理論倫理学も、目的や方向性は異なるものの「現実のトピック」について論じることに変わりはない。倫理学基礎論が倫理学的探究のあり方を問うのは、「現実の倫理問題」のより適切な「解決」を目指してこそ意義がある。また、「現実のトピック」を用いて理論を彫琢しようとする理論倫理学であっても、彫琢された理論自体は「現実の問題」に応用できてこそ存在価値がある。「現実の問題」にまったく関係しないなら、どんなに包括的で統一性のある理論であっても、倫理学の理論とはいえない。

 また、直接に「現実の問題」への回答を試みる狭義の応用倫理学であっても、理論倫理学や倫理学基礎論の探究を含むものでなければならない。理論倫理学の成果としての倫理学理論なしには、「現実の問題」への回答を指示したり根拠づけたりすることができないし、倫理学基礎論によって「現実の問題」の問い方そのものを検討しなければ、拙速で浅薄な回答しか導き出せないだろう。

(註)
(1)「けだし、かかる[政治学(倫理学)的]探究においては知識がではなく、実践が目的なのだからである」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第1巻第3章、1095a。訳文は高田三郎訳、岩波文庫版による。[ ]内は土屋による補足)「実践とか行為(タ・プラクタ)にあっては、それぞれのことがらを単に観照的に考察して、それを単に知るということがではなく、むしろそれらを行なうということが究極目的なのだといえるのではなかろうか」(同、第10巻第9章、1179b)。
(2) 「〜はよい/わるい」「〜すべきである/すべきでない」「〜しなければならない/しなくてもよい」などの、価値や当為に関わる判断(「規範的判断」)を、本稿では煩雑を避けるため主に「正しい」という言葉で代表させる。したがって、本稿における「正しい」を「よい」(価値の判断)や「すべき」(当為の判断)と読み替えても同じである。


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