これまで日本で医療倫理といえば、おもに「治療の倫理」つまり患者さんが医師から治療を受けることに関する倫理的問題について論じられてきました。「インフォームド・コンセント」についても、日本では、がんなどの病名や予後の見込みなどの疾病情報を本人へ開示することや、乳がんなどの治療法の選択に関して語られることが多かったといえます。
しかし、医師の行う「医療行為」はすべて「治療」であるといえるでしょうか?医療行為はみな「治療」の名に値するでしょうか?
この問題に気づいたのは、「人体実験」すなわち「人を対象とした実験や研究」について調べ始めてからです。医学および医療は、新しい治療法を開発することによって進歩します。ですが、ある治療法がほんとうに人間に対して有効かどうかを確かめるには、実際に人に対して試してみなければなりません。人と動物とでは生理学的なちがいがあるので、動物実験でいくら有効性が確かめられても、人に有効であるとはいえないからです。人の病気を治すという崇高な目的を果たすためには、人を実験台として用いるという過程を必ず経なければならない。これこそ、医学および医療が本質的に抱えている倫理的ディレンマといえます。それゆえ、医学研究の倫理は人体実験の倫理を柱とせざるをえません。
とくに第二次大戦後は、ナチス・ドイツの医師たちが強制収容所に収容されていた人々に行った非人道的な人体実験が明るみに出て、二度とこのようなことがあってはならない、ということから、「死や重い障害をもたらす実験は行ってはならない」「実験台になる人の自由で自発的なインフォームド・コンセントを得なければならない」「危険性を上回る利益がなければならない」「実験台になった人は苦しくなったら途中で止めてもいい」など、医学実験が満たすべき条件が定められました。こうして、海外では、人体実験や医学研究の倫理が、医療倫理学の中心的課題の一つとして、盛んに論じられています。
ところが、日本の医療倫理や生命倫理では、人体実験の問題はあまり論じられていません。日本語で「人体実験」といえば、それだけで「してはならないこと」「非人道的なこと」という語感をもって語られています。それはおそらく、15年戦争期に関東軍第731部隊などで行われた残虐な医学実験や生体解剖が戦後隠蔽され、医学界では人体実験について語ることがタブーとなり、人体実験といえば猟奇的なイメージしか抱かれてこなかったからであると思われます。いずれにせよ、人体実験や医学研究の倫理についてきちんと議論してこなかったという点で、日本の医療倫理や生命倫理は、かなりアンバランスな形をしているといえます。
ところで、患者の病気を治すとか、症状を改善する、苦痛を緩和する、というように、医学的方法によって患者の幸福を図ることを「治療」と呼ぶとします。すると、患者を研究の対象にするとか実験台にするということは、それ自体は「治療」とは呼べないことになります。研究や実験を行うのは、新しく開発中の薬や治療法がほんとうに人間に効くのかどうか確かめたり、人間の身体や精神のメカニズムを知るためです。開発中の薬や治療法の場合、それを使ってほんとうに病気が治ったり症状が改善したりするかどうかがわからないからこそ、研究や実験を行っているのです。もしかしたら症状がうまく改善するかもしれないけれど、逆に副作用が強く出て、患者の容態はかえって悪くなるかもしれません。また、身体や精神のメカニズムを知るための研究なら、患者を治すことが第一の目的ではないことになります。
もっとも、もしかしたら実験台になることによって、結果的に患者の病気は治るかもしれません。この希望があるからこそ、いくら成功の可能性が低い実験段階の治療法であっても、他に治療法がない患者は「ダメでもともと」で実験台に志願するわけです。しかし、もしそれで病気が治ったとしても、それはたまたま幸運だったということにすぎません。すでに実績があり治療効果が確かめられている治療法を受ける場合とはちがい、実験や研究においては、治療効果が上がることは副次的結果にすぎないのです。このような実験や研究のことを「治療的実験」とか「治療的研究」と呼びますが、ここで「治療的」というのは「実験台になる患者に、副次的結果として治療効果などの身体的利益があるかもしれない」という以上の意味ではありません。
また、実験や研究には、実験台になる人(しばしば「被験者」とか「研究対象者」と呼ばれます)に治療効果などの身体的利益がありえない、というものもあります。たとえば、健康な人が実験台になる場合には、もともと健康なのですから病気が治るといった利益はありえず、かえって健康が損なわれるという不利益をこうむる可能性しかありません。患者が実験台になる場合でも、病態の解明などが目的の場合は、同じ病気の他の患者や、その研究によって医学が進歩し恩恵を受ける人々には利益になるものの、実験台になる本人は利益が得られる可能性がない、ということがあります。このような実験や研究のことを「非治療的実験」とか「非治療的研究」と呼びます。ナチス・ドイツや731部隊が行った人体実験は、健康な人に重い障害を負わせたり殺したりしたのですから、非治療的実験の最たるものです。
もっとも、非治療的実験だからといって、それだけで「行ってはならない」というわけではありません。実験台になる本人がこうむるかもしれない不利益にくらべて、他の患者にもたらされる利益や医学への貢献度がかなり大きいと見込まれる場合には、本人が実験内容を十分に理解した上で積極的に実験台になる意思を表明しているならば、非治療的実験でも認めてよいといえることがあります。ただし、その場合でも、単に本人がインフォームド・コンセントを与えたというだけでは不十分で、本人に死や重い障害など重篤な危害が生じる危険性がないこと、実験台になる人を(手近にいるからとか同意を得やすいから選ぶのではなく)同じ条件の人々の中から公平に選んでいること、などの条件を満たす必要があります。治療的実験の場合でも、これらの条件は満たさなければなりません。また、インフォームド・コンセント」といっても形だけのものではなく、「何のために、どのような実験台になるのか」「どんな利益が期待でき、どんな危険性があるのか」「実験台にならなければどうなるのか」「他にやり方はないのか」「他のやり方ではどんな利益が期待でき、どんな危険性があるのか」など、実験台になるかどうか決めるために欠かせない重要な点について、わかりやすい文書を用いた正確かつ十分な説明を受け、誤りなく理解した上で、強制や威圧を受けることなく、みずから進んで同意する、というものでなければなりません。
*最近、医師が説明を行うことを「インフォームド・コンセントを行う」とか「インフォームド・コンセントをする」と表現するのが医学界で広まり、マスコミでもそれを無批判に踏襲していますが、これは「コンセント(同意)」の主体が患者や実験台になる人であるというインフォームド・コンセントの本質をまったく理解していないばかりか、「コンセント」という英単語が「同意」という意味であるということすらわかっていないことを、みごとに露呈しています。
くりかえしますが、医学や医療は、人を対象に実験や研究を行うことによって成り立っています。人を実験台にしないかぎり、医学や医療の進歩はありえません。あまりにもずさんな治療によって犠牲者が出たりすると、しばしばマスコミなどで「これは人体実験だ」といった表現がなされますが、「人体実験だから悪い」と非難するのは無意味です。医学は人体実験なしにはありえないし、実際に人体実験は、薬や治療法の開発のために、健康な人や患者さんを対象にして日常的に行われているからです。したがって、正確には、「人体実験だから悪い」ではなく、「あまりにもずさんな」人体実験だから悪い、といわねばなりません。人体実験をすべて認めないのではなく、認められない人体実験とはどのようなものか、を明確にしなければなりません。
ところで、実験や研究と同じように、医学や医療にとって根本的なディレンマを含むものが、少なくともあと3つあります。それは、医療者を育てるための「医学実習(医学教育)」(患者を練習台とすること)と、医療機関を成り立たせるための「医療経営」(患者を収入源として利用すること)、それに、必ずしも「患者」ではない健康な人々も含んだ「国民」を対象とする「医療政策」です。
医師や看護師などの医療者は、生まれつき診断や治療やケアの技術を持っているわけではもちろんありません。医療に必要な知識や技術は、まず学校で習うことにより身に付け、国家資格を得るだけのレベルに達するわけです。また、たとえ免許を取って医師や看護師になっても、それだけでは新卒ほやほやで、知識的にも技術的にも未熟です。つまり医療者というのは、患者に相手に実習や診療やケアの経験を積み重ねることによって、知識や技術を身に付け一人前になっていくのです。その意味で、医学・医療は、患者をいわば「練習台」にするという過程ぬきには成り立たない。医療者は、人を治したり癒したりする技量を身に付けるために、人を「練習台」にしなければならない。これは医療者という存在が本質的に抱えている倫理的ディレンマです。
そして、医療者に向かって「人を練習台にするな」と非難しても無意味であって、むしろ「練習台にするならこれだけの条件は守れ」といわなければならないのは、実験や研究の倫理と同じといえます。その条件とは、たとえば、
・死なせたり、重い障害を負わせたりするな
・危険性が利益を上回るな
・練習台にする人を公平に選べ
・本人の自由で自発的なインフォームド・コンセントを得よ
・途中でやめても一切不利益を被らないことを保障せよ
というような、内容的には実験や研究の条件とそれほど変わらないものになるはずです。
もっとも、練習台になることによって、患者の病気が治ったり症状が改善されたり苦痛が緩和されたりすることはあります。すなわち、医学実習にも「治療的実習」(練習台になることで身体的利益が得られるかもしれない実習) と「非治療的実習」(練習台になっても何の身体的利益も得られない実習) があることになります。通常の医療の中で患者を対象にして行われている実習の大部分は治療的実習でしょう。これに対して、非治療的な実習の最たるものとしては、十五年戦争期に中国各地の陸軍病院で行われた、新米軍医の訓練のための「手術演習」が挙げられます。これは、捕らえた中国人を連れてきて、気管切開や虫垂切除や銃創治療や四肢切断などの手術の練習台にして殺した、というものです。
また、「治療」として行われていることのなかには、患者に身体的利益をもたらすことよりも、医療施設の経営を成り立たせることが目的なのではないかと疑われるようなものがあります。そのような医療行為はもとより非難の対象になりますが、考えてみれば、病院の経営を成り立たせようとすること自体は、必ずしも非難すべきことではありません。とくに医療機関が少ない地方では、地域医療を担っている病院がつぶれてしまえば住民も困ります。また、患者としては、適正な医療を適正な価格で受けられたのであれば、自分の支払った診察代によって病院の経営が成り立っていること自体は、とくに問題とすべきことではありません。したがって「医療施設の経営を成り立たせるために患者を収入源として利用するな」と非難しても無意味であって、むしろ「患者を収入源として利用するならこれだけの条件は守れ」というべきでしょう。これも、実験・研究の倫理や実習の倫理と同じ構造であり、そこで求められる条件も同じようなものになると予想されます。
医療機関で診療を受ければ患者は身体的利益を得られるのが普通なので、医療経営は基本的には「治療的経営」(患者は収入源として利用されることで身体的利益が得られる)のはずです。しかし、富士見産婦人科病院事件のように、収入源になることで患者がむしろ危害を受けるような例では「非治療的経営」(患者が収入源として利用されても何の身体的利益も得られない場合)であるということになります。
医療についての政策は、患者ばかりではなく健康な人も対象とする、病気や健康についての全般的な国の政策になります。ところがその場合「国民全体」の「国としての」健康を護るために、患者や障害者の人権を脅かす危険性をはらむことがあります。20世紀に多くの国々で採用された「優生政策」がそれです。19世紀の英国に始まる「優生学」は、20世紀に入って広く国の政策に取り入れられました。障害者や障害児の抹殺を行ったナチス・ドイツが最も有名ですが、米国やドイツ以外のヨーロッパ諸国でも優生政策は行われましたし、一人っ子政策をとる中国では現在なお行われています。日本では1948年から1996年まで「優生保護法」のもとで「不良な子孫の出生を防止する」ための断種(「優生手術」)や人工妊娠中絶が公然と認められていました。また、ハンセン病は感染力が非常に弱いにもかかわらず、1996年に「らい予防法」が廃止されるまで、患者を強制的に隔離し療養所に収容する政策が続けられました。このように、医療政策は、多数の国民の健康を保とうとして少数の患者を犠牲にしかねない構造をもっています。
以上のように、医療倫理は、少なくとも、
(1) 治療の倫理
(2) 実験・研究の倫理
(3) 実習の倫理
(4) 経営の倫理
(5) 医療政策の倫理
の5つの領域を持たなければならないといえます。