●「倫理学を学ぶ」とはどういうことか
──「倫理学する」ようになること、倫理学について語れるようになること──
「学問を学ぶ」ということは、二つの意味を含んでいます。その一つは、学ぶ人自身がその学問を自ら「する」ことができるようになることです。もう一つの意味は、その学問について「語れる」ようになること、いいかえれば、その学問で使われる言葉(術語)の意味や、今日に至るその学問の歴史のなかで議論され蓄積されてきた内容について話せるようになることです。
この二つの内容を分けて取り出すことは、実際にはそう簡単ではないのですが、それでも区別することが重要です。なぜなら倫理学の場合、術語や学界での議論を知らなくても「倫理学する」ことを始められるからです。
たとえば、なぜ嘘をついてはいけないのか、という素朴な疑問を発して、一生懸命その理由を考えている子どもは、倫理学という学問の内容をまったく知らなくても、すでに立派に「倫理学し始めて」います。倫理学について初めて学ぶみなさんも、同じように日常生活の中で「倫理学し始めている」ときがあるはずです。
また逆に、私のようないわゆる倫理学者が、その学術的研究においていつも「倫理学している」とは限りません。倫理学界で行われているのは、過去の「倫理学した」人々がどんなことを考え論じ合っていたのか、という、倫理思想の解釈をめぐる歴史学的な議論であることがしばしばです。
倫理学について語れるようになることは、倫理学の研究者になろうとする人にとっては必要ですが、そうでない人にとっては、どうしても必要なことというわけではありません。むしろ、どうすることが「倫理学する」ことなのか、ということを知ることこそ、倫理学を学ぶ上で一番大切なことです。
この科目を履修しているみなさんの大部分は、倫理学研究者を目指しているわけではないと思います。そこで、この科目は「倫理学について語れる」ようになることよりは「倫理学する」ことができるようになることに重点をおきます。もっとも、倫理学について語れるようになるために知らなければならないことの中には「倫理学する」上で役に立つこと(たとえば、倫理学の術語や、倫理学的思考のパターン)がたくさん含まれているので、倫理学について語れるための知識について触れることもありますが、それは必要最小限にとどめます。
●「倫理学する」とはどういうことか
倫理学とは、規範の根拠について考える学問です。
規範とは「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」といった文で表現されることがら*であり、規則、ルール、戒め、金言、法律、倫理、道徳などの内容をなしています。また、それは「権利」「義務」「責任」などの言葉によって表現されることもあります。
*「文で表現されることがら」のことを、論理学用語で「命題」といいます。
規範の根拠について考えるとは、どうして「〜はわるい」のか、なぜ「〜はよい」のか、どうして「〜してはいけない」のか、なんで「〜してもよい」のか、なぜ「〜すべき」なのか、なんで「〜すべきではない」のか、というようなことを考えることです。
どんな主張でも、その根拠(理由)が示されなければ説得力はありません。根拠(理由)を示さずに「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」と主張したとしても、それはただそう言い張っているだけで、ほんとうに「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」のかどうかはわかりません。根拠(理由)が正当と思えるならその規範は説得力をもつし、正当とは思えないなら説得力をもたないことになります。
学問であるとは、その問いと答えが、単なる個人的な好みのように自分だけにわかり他の人には共有できないものではなく、他の人にも理解できる理由がある、ということです。学問とは、ある問いについて、さまざまな人が集まって議論する営みです。ですから、学問であるためには、自分だけにしか理解できない言葉ではなくて、他の人にも理解できる言葉で説明し、それについて他の人と話し合うことが必要です。
他の人も理解できる理由の筋道のことを「論理」といいます。「論理的である」とは、理解できる理由に基づいている、ということです。ですから、学問には、言葉と論理がとても重要です。
要するに「倫理学する」とは、さまざまな規範の根拠、すなわち、どうして「〜はわるい」のか、「〜はよい」のか、「〜してはいけない」のか、「〜してもよい」のか、「〜すべき」なのか、「〜すべきではない」のか、という理由を、他の人にも理解できるように、筋道を立てて示そうすることです。
*「倫理学」とは、英語では ethics、ドイツ語では Ethik と呼ばれる西洋の学問名の翻訳でもあります。これらの学問名は、ラテン語の ethica という言葉から来ており、このラテン語はギリシア語の「[タ・]エーティカ」の音訳でした。エーティカという言葉は「エトス」(風俗・習慣)という言葉や「エートス」([風俗・習慣によって育成された、個人の] 性格・性状・人柄)という言葉から来ており、これは、もともとは「動物の絶えず出入りする場所」とか「住み慣れたところ」という意味でした。
一方、「倫」という漢字は「なかま」とか「ともがら」という意味をもっています。「理」とは「すじみち」「ことわり」ということです。したがって「倫理」という漢語(中国語)は「なかま」についての「すじみち」という意味をもっていることになります。
●「なに」についての規範か:「個人倫理学」と「組織倫理学」
「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」といった文で表現される規範は、「なに」について「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」などといわれるか、という点で、大きく二つに分けられます。そこで、規範の根拠について考える学問である倫理学も、二つの分野を含みます。
そのひとつは、ひとりひとりの人間の行為、および個々の行為の集積としての生き方(人としてのあり方)です。個々人の行為や生き方を対象とする倫理学は、いわば「個人倫理学」です。
これに対して、もうひとつの「なに」は、複数の人間によって成り立つ、集団や共同体や社会や国などです。これらは一括して「組織」と呼ぶことができます。そこで、集団や共同体や社会や国などのあり方(成り立ち・仕組み・構造など)や行為(集団や共同体や社会や国がひとつの主体として行う行動・活動・政策など)について、「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」などということは、どういうことであり、なぜそういえるのか、を考察する倫理学は「組織倫理学」になります。
今日「倫理」「道徳」というと、ひとりひとりの人間の行為や生き方についての規範のことと捉えられ、「倫理学」も個人の行為や生き方を扱う「個人倫理学」のことだと思われることが多いです。しかし、こうした理解は、20世紀初頭に出現した狭い見方にすぎません。
しかも今日では、こうした狭い見方に呼応して、社会や国などのあり方や行為を扱う倫理学をわざわざ「社会倫理学」と呼ぶこともあります。しかしながら、倫理学は古来、ひとりひとりの人間の行為や生き方だけでなく、社会や国のあり方に関しても、規範とその根拠について考えてきました。その長い歴史を振り返ると、「倫理学」ははじめから「社会倫理学」ないし「組織倫理学」でもあり、今日では「政治哲学」「法哲学」「経済哲学」と呼ばれる分野をも含んでいたのです。
「倫理学」とは、けっして個人の行為や生き方だけを扱うものではなく、集団や共同体や社会や国のあり方や行為も扱う、という点に注意してください。
●倫理学と哲学の関係
倫理学は哲学の一部門です。つまり、哲学は倫理学を含む、より広汎な学問です。規範とくに倫理ないし道徳について考える哲学という意味で、倫理学はしばしば「道徳哲学」とか「実践哲学」とも呼ばれます。
*この科目では「倫理」と「道徳」を同じ意味に用います。つまり「倫理」のことを「道徳」と言い換えたり「道徳」のことを「倫理」と言い換えたりして、両者を区別しないで用います。「道徳」は英語の moral に相当する西洋語の翻訳ですが、moral はもともとラテン語系の言葉で、ギリシア語系の ethic[s] と同様の意味をもっており、この科目が基礎としている西洋の倫理学ではおおむね入れ替えても意味が変わらないからです。
また「実践」とは「行為、行動」を意味するギリシア語の「プラクシス」(英語では practice)の訳ですので、「実践哲学」というのは要するに「行為についての哲学」という意味です。
●哲学と科学はどうちがうのか
古代ギリシアに始まった哲学(西洋哲学)は、もともと今日でいう自然科学も社会科学も人文科学もすべて含んでいました。「哲学」という言葉はギリシア語の「ピロソピアー」(フィロソフィア、知識を愛する)という言葉から来た西洋の学問名の翻訳で、明治時代の初めに西周(にし・あまね)という学者が最初に用いました。古代ギリシアの「ピロソピアー」とは、知ることすべて、学問すべてを指していました。しかしながら、学問の探究が進んでいくと、さまざまな対象に応じた観察と記述を行う学問が「科学」として哲学から巣立っていき、いまでは、観察しても答えが得られないことを取り扱う部分だけが「哲学」の中に残っています。
次回以降に詳しく説明しますが、客観的な観察や実験や調査によって知識を獲得しようとする「客観科学」としての「科学」において、得られた知識の内容は、「〜は〜である」「〜は〜となる」といった文で表されることがら(事実命題)であり、これは「客観的知識」です。こうした客観科学の方法は「科学的方法」と呼ばれます。また、近代においては、探究する対象ごとに諸々の科学が成立しています。
これに対して哲学は、客観的知識ではない、規範なども扱っています。また、科学的方法以外にも、さまざまな方法を用いて考えます。哲学は、対象も方法も、科学のように限定されていません。
●倫理学することは倫理的なことか
倫理学(道徳哲学)すること、すなわち規範の根拠について考えるとは、規範の妥当性や有効性をひとまず棚に上げて、「ほんとうに〜はわるいのか」「ほんとうに〜すべきではないのか」と疑ってみることや、そういえる理由を考えてみることを含んでいます。
このことはしばしば、あまり「倫理的(道徳的)でない」とか「屁理屈をこねている」とみなされることがあります。つまり「倫理学(道徳哲学)する」ことは、必ずしも(世間一般にいわれる意味での)「倫理的(道徳的)」なことではありません。倫理学とは「そもそも、なぜ犯罪を犯すと罰せられなければならないのか」とか「人を殺してはいけない理由なんてあるのか」とか「買春することがなぜわるいのか」とか「なんで臓器売買は認められないのか」といったような、世間一般からは問いを立てること自体「不届きだ」と思われがちな「そもそも」の問いも、あえて考えてみる「危険な」学問でもあるのです。
哲学や科学のみならず全ての学問が、しばしば物事や常識の前提を疑うことを含んでいますから、どんな学問も、多かれ少なかれこのような「危険な」側面があります。ですが、さまざまな学問の中でも、「理由など問わずにただ従えばよいのだ」とされている規範についてすら、その理由を問うてしまう倫理学(道徳哲学)は、とりわけ「危険」とみなされるかもしれません。
しかし、根本から掘り起こし耕すことは、確固たる地盤を築く上で欠かせない作業です。哲学や科学、そして倫理学には、常識を根本から掘り返して新しい常識を築き、それもまた根本から掘り返していくという、終わりのない探究を続けるという点が、もっとも重要なのです。