倫理学概論1 第8回
究極的原理はどのようなものか②

●それ以上さかのぼれない大前提としての同語反復
 さて、このように実践的三段論法を逆さに書いていく形式を用いて整理し、それまで必ずしも意識されていなかった《隠れた前提(理由、根拠)》を明らかにしながら、正当化の筋道をさかのぼっていくと、もうそれ以上さかのぼれない前提にいつかは到達すると考えられます。しかし「もうそれ以上さかのぼれない」というのは、どういうことなのでしょうか。
 そのひとつの表現は、大前提が同語反復(トートロジー tautology)になってしまうことです。
 たとえば、

・健康はよい。なぜなら、健康は幸福をもたらすからであり、幸福はよいからだ。
 では、なぜ幸福はよいのか?

という問いに対して、

・それは「幸福」とは「よい状態」を意味するからだ*。

*前回までは事実命題の接尾語として主に「である」を用いてきましたが、「だ」という接尾語を用いても意味は全く変わりません。そこで今回は、表現をより簡潔にするために、主に「だ」を用います。

という答え方があります。この答え方では「幸福がよいのは、幸福とはよい状態のことであり、『よい状態がよい』というのは同語反復だから、幸福がよいのは当たり前だ」ということになります。
 同じような例として、

・商売繁盛はよいことだ。なぜなら、商売繁盛は利益をもたらすからであり、利益はよいことだからだ。
 では、なぜ利益はよいことなのか?

という問いに対して、

・それは「利益」とは「よいこと」を意味するからだ。

という答え方があります。つまり「利益がよいのは、利益が『よいこと』を意味するからであり、『よいことがよい』というのは同語反復だから、利益がよいことなのは当たり前だ」というわけです。

*英国人のジョン・ステュアート・ミルという哲学者は「功利主義(公益主義)Utilitarianism」(1861年発表) という論文の中で「幸福(快楽と、苦痛の欠如)が望ましいのは、人々がそれを望んでいるからだ」と述べ、それを「人々の幸福(快楽)の総和を最大にすべきだ(なるべく多くの人々が、なるべくたくさん幸福に(快く)なるようにすべきだ)」という「功利主義(公益主義)原理」の証明としました。
(「何かが望ましいということについて示すことのできる唯一の証拠は、人々が実際にそれを望んでいるということであるように私には思える」川名雄一郎・山本圭一郎訳『J. S. ミル功利主義論集』京都大学学術出版会、2010年、303ページ)
これに対し、やはり英国の哲学者ジョージ・エドワード・ムーアは『倫理学原理』(1903年出版) という本のなかで、人々が望んでいることのすべてが「望ましい」とは限らないことからわかるように、「〜が望ましい」という命題は事実命題ではなく価値命題(規範命題)であり、「人々がそれを望んでいる」という事実から導き出すのは間違いだ、とミルを批判しました。
(「『望ましい (desireble)』ということは、実は『見える (visible)』ということが『見られうる (able to seen)』を意味するように、『望まれうる[あるいは欲求されうる](able to be desired)』という意味ではない。望ましいものとは、単に望まれるべきもの (what ought to be desired) あるいは望まれるに値するもの (what deserves to be desired) を意味する」泉谷周三郎・寺中平治・星野勉訳『倫理学原理』三和書籍、2010年、184ページ。強調は原文による)
そこから「規範命題は事実命題から導き出せるか」という現代倫理学上の論争が始まったのですが、ミルが言いたかったのは「幸福(快楽)が望ましいというのは、《人々にとって望ましいもの》ということこそ《幸福(快楽)》という言葉の意味だからだ。ゆえに《幸福は望ましい》は《人々にとって望ましいものは望ましい》という同語反復になる」ということだったのだ、と解釈すれば、ミルが事実命題から価値命題を導き出しているとはいえないと考えられます。
(「公平に調べられれば、何かを望みそれを快楽あるものと考えることや何かを嫌いそれを苦痛あるものとみなすことがまったく切り離すことのできない現象であるということ、あるいはむしろ同じ現象の二つの部分であるということ、厳密な言葉で言えば、同じ心理的事実の二つの異なった呼び方であるということを明らかにすると私は確信している」ミル、同上、309ページ)

★ところで、大前提が同語反復になってしまうということは、どういうことなのでしょうか?
 ここで前回に挙げた例をみてみます。

脳内出血の治療はよい(結論)……なぜ?
脳内出血の治療で人の命が救われる(小前提)
人の命が救われるのはよい(大前提)……なぜ?(結論)
 人の命が救われると人々が幸せになる(小前提)
 人々が幸せになるのはよい(大前提)……なぜ?(結論)
  人々が幸せになるのはよいことだ(小前提)
  よいことはよい(大前提)……分析終わり

前提をさかのぼるとき、{媒名辞}⊃{小名辞}か、あるいは{小名辞}が{媒名辞}という結果をもたらす行為になっているような、そういう媒名辞を探していくことがポイントでした。ところで、同語反復になった命題では、媒名辞が大名辞にもなっています。この例では、媒名辞は「よいこと」と、「〈大名辞〉+こと」という形になっています(「こと」という言葉は、小前提を事実命題にするために必要です)。すなわち{大名辞}={媒名辞}になり、大前提が「〈大名辞+こと〉は〈大名辞〉だ」となって、同語反復になるのです。

★★このように、実践的三段論法を逆さにした形式で前提をさかのぼっていくと、最終的には、大前提が「〈大名辞+こと〉は〈大名辞〉だ」という形の同語反復になるので、大名辞を選択する際に、そのことをあらかじめ見越しておくことが重要になります。
 大名辞は、結論から同語反復に至るどの段階でも、ずっと同じで変わりません。同語反復になった大前提は「〈大名辞+こと〉は〈大名辞〉だ」という命題であり、「よいことはよい」とか「すべきことはすべきだ」という形をとった場合に最も明確になります。そこで、最初から大名辞を「[することは]よい」とか「すべきだ」という言葉だけに絞り込んでおくことを勧めます。
 大名辞を「[することは]よい」とか「すべき」というシンプルな言葉に絞り込んでおくということは、最初に小名辞のほうに多くの内容を含ませておくということでもあります。小名辞[の集合]が媒名辞[の集合]に包含されるか、あるいは小名辞が媒名辞という結果をもたらすような、そういう事実命題が小前提であり、見いだされた媒名辞を改めて小名辞とみなし、さらにそれを包含するか結果となるような媒名辞を探していくという分析を繰り返すなかで、それまで意識されていなかった《隠れた前提》がひとつひとつ明らかになっていきます。その際、最初に、大名辞を「[することは]よい」とか「すべき」というシンプルな言葉に絞り、小名辞に多くの内容を残しておけば、同語反復に到達するまでに、たくさんの《隠れた前提》を明文化することができます。もし最初に大名辞に多くの内容を入れ込んでしまうと、同語反復に早く到達してしまい、《隠れた前提》を十分に明らかにすることができません。
 たとえば、「空き缶はくずかごに捨てるべきだ」という規範命題を、「空き缶は」を小名辞とし、「くずかごに捨てるべきだ」を大名辞とすると、

空き缶をくずかごに捨てるべきだ(結論)……なぜ?
空き缶はくずかごに捨てるべきものだ(小前提)
くずかごに捨てるべきものはくずかごに捨てるべきだ(大前提、同語反復)……分析終わり

となります。この分析は論理的には正しいのですが、実質的に「なぜ、空き缶をくずかごに捨てるべきなのか?」という問いに対して答えていません。すなわち、《隠れた前提》を十分に明文化できていません。
 これに対し、「空き缶をくずかごに捨てること」を小名辞とし、「すべきだ」を大名辞としておくと、たとえば、

空き缶をくずかごに捨てるべきだ(結論)……なぜ?
空き缶をくずかごに捨てることはゴミを散らさないことだ(小前提)
ゴミを散らさないことをすべきだ(大前提)……なぜ?(結論)
 ゴミを散らさないことは町を清潔に保つ(小前提)
 町を清潔に保つことをすべきだ(大前提)……なぜ?(結論)
  町を清潔に保つことは人々を心地よくする(小前提)
  人々を心地よくすることをすべきだ(大前提)……なぜ?(結論)
   人々を心地よくすることは人々に幸福をもたらす(小前提)
   人々に幸福をもたらすことをすべきだ(大前提)……なぜ?(結論)
    人々に幸福をもたらすことはすべきことだ(小前提)
    すべきことはすべきだ(大前提、同語反復)……分析終わり

というように、多くの《隠れた前提》を明文化することができるのです。

★なお、「よいことはよい」「すべきことはすべきだ」などの、同語反復になっている大前提自体は、実質的な意味をもっていません。したがって、それらは「それ以上さかのぼれない大前提」ではありますが、けっして「原理」ではありません。それは「指図性」をもつ命題ではありますが、何ごとも「指図」してはいないからです。
 規範としての「原理」は、同語反復になる一つ前の大前提に表れています。すなわち、上に挙げた例では、「幸福はよい」「利益はよい」「人々に幸福をもたらすことはよい」「空き缶はくずかごに捨てるべきだ」「人々に幸福をもたらすことをすべきだ」という大前提が原理として扱われています(ただし、あくまでこれらの例では原理として扱われているというだけであり、そのように原理として扱うのが適切であるとは限りません。だからこそ、それについて「なぜ?」と問うた際に明文化されるのが、「幸福はよい状態だ」「利益はよいことだ」「人々に幸福をもたらすことはよいことだ」「空き缶はくずかごに捨てるべきものだ」「人々に幸福をもたらすことはすべきことだ」という小前提になるのです。

*なお、「こと」「もの」を付けず「よい」「すべきだ」で終わらせるなら、その命題は事実命題ではなく規範命題であり、小前提になりません。逆に、規範命題である大前提にするためには「よい」「すべきだ」で終わらせなければならず、「こと」「もの」をつけてはいけません

 つまり、実践的三段論法を逆さにして理由を問うていく(前提を明らかにしていく)最後の段階で、「〜はすべきことだ」とか「〜[するのは]よいことだ」という小前提を立て、「すべきことはすべきだ」とか「よいことはよい」という同語反復に持ち込むのは、そのひとつ前の段階で見出された大前提がそれ以上理由を説明できない原理であることを示すために行われる作業にすぎません。この回の冒頭で《大前提が同語反復になってしまうことが「それ以上さかのぼれない」ということのひとつの表現である》と述べたのはそういう意味です。「原理」に到達し「もうそれ以上さかのぼることができない」と考えるからこそ、最終的に大前提が同語反復になる形を整えるのであって、分析を進めていったらいつのまにか同語反復に到達し原理が自動的に見出されるというわけではありません。


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