私はこれまで「現実の問題に即して」倫理学(道徳哲学)の立場から考察を行うことを研究の一つの柱としてきました。「現実の問題に即して倫理学的探究を行うこと」を「応用倫理学」と呼ぶならば、それは「応用倫理学(応用道徳哲学)」ということになります。
大阪市立大学大学院文学研究科・文学部哲学教室では倫理学の担当者として、全学共通科目(公立大学では国際基幹教育科目)の「倫理学入門」、学部専門科目「倫理学概論」「倫理学演習・購読」、大学院科目「倫理学研究」「倫理学研究演習」といった倫理学一般に関する科目を担当しながら、文学部専門科目「人間文化基礎論2」でいわゆる「安楽死」、全学共通科目「生と死の倫理」で人工妊娠中絶を取り上げてきました。また、大学内の兼担として、医学部の専門科目「医療倫理学」を2002年度から2019年度まで18年間担当したほか、2000年度から人権問題研究センターの兼任研究員としてさまざまな人権問題(被差別地区出身者や障害者や外国人や女性および性的少数者などに対する差別問題)に関して考察を行っています。さらに、2016年春に大病を患うまでは、居住している兵庫県三田市において、居住する地区内にある三田市立学園小学校の評議員、自治会等の連絡会である「学園小学校区まちづくり連絡会」の運営メンバー、三田市人権を考える会(旧・三田市同和教育研究協議会)の学園小学校区地域部会の担当理事、市の諮問機関「三田市人権のまちづくり推進委員会」の委員長などを務めながら、「共生のまちづくり」を模索してきました。
私自身のこれまでの主たる研究テーマの一つは、人を対象とした実験・研究、なかでも医学研究に関して、過去の歴史的事例を調べながら、あるべき姿を模索したものでした。その関係で、看護学研究科の倫理審査委員会の立ち上げに協力し2008年度から2015年度まで委員を務めたほか、現在、人権問題研究センターの研究倫理審査委員を務め、大学院の必修科目「研究公正」の担当者の一人になっています。また、倫理ないし道徳の教育(倫理教育・道徳教育)に関しても研究を行っています。
ですが、このような「応用倫理学」とは、そもそも倫理学全体の中で、どのような位置を占めるのでしょうか。「応用」の対義語が「理論」であるならば、「応用倫理学」の対義語は「理論倫理学」ということになりますが、「理論倫理学」とは何でしょうか。「応用倫理学」が「現実の問題に即して倫理学的探究を行うこと」ならば、「理論倫理学」は「現実の問題に即さずに倫理学的探究を行うこと」なのでしょうか。しかし、そもそも、現実の問題とは無関係に倫理学的探究が成り立つのでしょうか。いったい「現実の問題に即さずに」とは、どういうことを意味するのでしょうか。
また、「応用倫理学」においては、その「現実の問題」すなわち実際に起こった事例や歴史的事実に関しては、ジャーナリストや歴史家や社会科学者によって描き出された既成の記述を用いることが少なくありません。倫理学研究者は「事実」を探究するための専門的な訓練を受けていないので、「事実」の解明に関しては、しばしばジャーナリストや歴史家や社会科学者に頼らざるを得ないからです。ですが、こうした既成の記述をそのまま「真実」として受け取ることには危険もあります。新たな「事実」が掘り起こされれば、既成の記述が「誤り」(偽)であると判明し書き直されるかもしれません。そうなれば、その「事実」をめぐる倫理的な評価も逆転する可能性があります。そこで、倫理学研究者も、多少なりとも「事実」の解明やその真偽の検討に踏み込むことになります。
ですが、「本当のところ、いったい何が、どうして起こったのか」を調べていくことは、「倫理学(道徳哲学)の研究」としてどのような意義をもつのでしょうか。また、「事実」について詳しく知っていくことは、その「事実」に即した規範的判断、およびその判断の根拠となる倫理学的原理の探究に、なぜ、どのように影響するのでしょうか。
1.「現実の問題に即して」とは?
倫理学(道徳哲学)的探究の最終的な目的は、現実の世界(人間の行為を含む)のあり方や成り立ちや行く末について説明する(現実の世界を対象化し、観察し、記述する)ことにあるのではなく、現実の世界の中での「実践(プラクシス、行為)」(現実の世界の中で各人[々]が置かれている個別的状況において、どうするのが「いま、ここで」「正しい(1)[よい/すべき/適切な/しなければならないetc.]」ことなのかをその各人[々]が適確に判断し、そうすること)にある(2)、と考えます。その意味で、単に「応用倫理学」のみならず、倫理学全体が、何らかの形で「現実の問題に即」さざるを得ません。こうした広い意味では、倫理学は実のところ、現実の問題を扱う「応用倫理学」にほかならないことになります。
ただし、最終的な目的が実践(行うこと、行為)にあるからといって、倫理学(道徳哲学)そのものが行為(プラクシス)であるとか、倫理学が直接に個別の事例における当事者のためになる、というわけではありません。倫理学は「学」「学問」(エピステーメー)である以上は、個別で特定の事例や状況にだけ当てはまるのではなく、さまざまな事例や状況に当てはまる、一般的かつ普遍的な形で表現された、正しいことと正しくないことの基準、行為が「正しい」といえる理由、正しい生き方の指針などを、探究せざるをえません。
そして、そうした倫理学の普遍的な成果を用いて、あるとき、あるところで、個別の行為(実践)の是非について判断したり、それを実行したりするのは、私たちひとりひとりの人間であり、倫理学者(道徳哲学者)というわけではありません。学者として扱うのはあくまで普遍的な事柄に留まるからです。倫理学者といえども、特定の状況下で、個別の行為について判断したり実行したりする際には、単なるひとりの人間として行っているのであって、学者として倫理学しているのではありません。
また、倫理学の普遍的な成果といっても、たとえば、ある行為をすべきか否か悩むときに、手持ちの情報を入力しさえすれば一つの答が出てくるような数学の公式のようなものは、残念ながら倫理学は提供できません。というのは、現実の世界の出来事にはあまりにも多くの要素があり、公式を作るにしても変数が多すぎるからです。
ですが、ひとくちに「現実の問題に即して」倫理学的探究を行うといっても、そこには少なくとも三つの方向性が含まれています。もっとも、この三つの方向性はあくまで理念型で、実際に行われている倫理学的探究の多くは、どれか一つの方向性だけではなく、いくつかの方向性が混合しています。
第一の方向性は、「現実の問題」で提起されている「倫理的問題」への回答を試みる、というものです。これは、その問題を「解決」し、当事者の「役に立つ」ために、倫理学に蓄積されている資源(リソース)を使う、ということです。目的はあくまでも「現実の問題の解決」にあり、倫理学的探究はそのための手段であって、いわば、倫理学を問題解決の道具(ツール)として使う、という方向性です。その意味でこれは「現実のための(for)倫理学的探究」といえるでしょう。医療倫理学でいえば、脳死状態患者からの臓器摘出を可能にしたり、人工妊娠中絶を行う女性の自己決定権を擁護するために、そもそも人間とは何かについて考察するとか、薬害を防止するために医薬品の審査が従うべき倫理的原理を明らかにするとか、救命医療におけるトリアージ(優先順位づけ)を基礎づける倫理的原理を検討する、といったことがこれにあたります。
第二の方向性は、それとは逆に「現実の問題」のほうを倫理学理論の彫琢のための資源として用います(その際に用いられる「現実の問題」は、必ずしも実在する問題とは限らず、問題点をより先鋭化させたフィクションであることもあります)。目的は、倫理学理論をより包括的で洗練されたものにすることにあり、「現実の問題」はそのための「試金石」として用いられています。この場合、直接的に「現実の問題」を解決することが目指されているわけではなく、「現実の問題」は倫理学理論を検討するための思考実験の「ネタ」として引き合いに出されているだけです。「現実における(in)倫理学的探究」は、実はこのタイプのものであることがしばしばです。たとえば、人間とは何かについて考察するために脳死状態や中絶について論じるとか、普遍的な倫理的原理とは何かを検討するために薬害の実例を引くとか、功利主義の有用性を示すためにトリアージを紹介する、などです。
第三の方向性は、「現実の問題」が提起している「倫理的問題」そのものを分析し問い直すものです。これは「現実の問題」を解決するために倫理学を利用するのでも、倫理学理論の探究のために「現実の問題」を利用するのでもありません。むしろ、その「現実の問題」とはいったいどういうことなのか、そこで世間一般に提起されている問題がそのように提起されるのはなぜなのか、などと問うことで、その「現実の問題」をいったん棚上げし対象化して、より適切な問題の捉え方がないか(「真の問題」は何なのか)を追求していくもので、いわば「現実についての(of)倫理学的探究」です。そこにおいては、世間一般でいわれる「倫理問題」そのもの、さらにはその倫理学的探究自体について、倫理学(道徳哲学)的に、メタレベルの探究がなされます。たとえば、そもそも脳死状態が人の死であるかどうかが問題にされるのはなぜなのか(つまるところ動いている心臓を取り出さなければ心臓移植ができないという技術的問題を回避するためではないか)、薬害を生じさせてしまう薬事行政や医療の構造(製薬企業寄りの行政、新薬に期待してしまう患者、医学的権威の言説を批判的に分析できないジャーナリズムなど)こそ問題ではないか、トリアージが必要になる条件とは何か(災害における資源の希少など)、を考えていくことがこれにあたるでしょう。
フィクションでなく実際に起こった出来事を題材にしたとしても、それは実在の出来事や事柄を、そっくりそのまま丸ごと記述したものではありえません。出来事や事柄のあらゆる細部をそのまま言語化して記述することは不可能であり、「現実の問題」として記述されたものは必ず、記述者の視点から、必要と思われる側面を取り出して、自分にも他者にも理解できるように構成されたものです。それは「語り(narrative)」「物語(story)」「事例(case)」「歴史(history)」などと呼ばれますが、いずれも、ある視点から必要に応じて構成された「はなし」である以上、別の視点と必要性によって構成し直される可能性はつねに開かれています。だからこそ、「現実の問題」をいったん棚上げして問題の捉え方を検討するメタレベルの探究は非常に重要なのです。
2.倫理学の構成
このように、「現実の問題」とどのように関わるかに着目して倫理学的探究の三つの類型を取り出してみれば、それぞれに対応して、倫理学自体の構成も描き出せるでしょう。
第三の方向性、すなわち「現実についての(of)」メタレベルの探究は、「現実の問題」の倫理学的探究についての探究ということから、倫理学(道徳哲学)についての哲学、つまり「広義のメタ倫理学」(倫理学基礎論)であるといえます。これには「〜はよい/わるい」「〜すべきだ/すべきでない」「〜しなければならない/しなくてもよい」等の規範的(倫理的、道徳的、価値的、当為的)な言葉は何を意味しどのように使われているのかという「狭義のメタ倫理学」(規範言語についての分析哲学)が含まれますが、それだけでなく、倫理学(道徳哲学)とはそもそも何なのか、倫理学の研究とは何をすることなのか、倫理学はいかにして成立しうるのか(たとえば、道徳的であるとはどういうことか、なぜ道徳的でなければならないのか)などの問題も含め、倫理学の基礎に関わる諸問題の探究からなる領域です。
第二の方向性、すなわち「現実における(in)」倫理学的探究は、倫理学の「理論」の構築を目指すという意味で「理論倫理学」に含まれます。理論倫理学は「現実の問題」について論じないわけではありませんが、「現実の問題」を論じる直接の目的は、その「現実の問題」を解決することではなく、倫理学理論を彫琢することにあります。もちろん、倫理学理論を可能な限り彫琢した後には、その理論を用いて「現実の問題」における「正しい」行為を指示したり根拠づけたりすることができるかもしれませんが、それは理論倫理学の探究というよりは、むしろ理論倫理学の成果を用いた(以下に述べる、狭義の)応用倫理学の探究になります。
そして、第一の方向性、すなわち「現実の問題」で提起されている「倫理的問題」への回答を試みることが、狭い意味での(いわゆる)「応用倫理学」ということになります。倫理学は最終的には現実の世界の中での「実践(プラクシス、行為)」を目指しますから、この「狭義の応用倫理学」は、倫理学的探究の最終局面に位置することになります。
ただし、応用倫理学が回答しようとする「正しい」行為とは、個別で特定の行為ではなく、あくまで、一般的な行為の類型にすぎません。あるとき、あるところで、個別の行為の是非を判断し実行するのは、やはり私たちひとりひとりの人間です。応用倫理学は、私たちひとりひとりが、特定の状況下で、個別の行為の是非について判断する際の手がかりを提供するだけです。
ところで、倫理学基礎論(広義のメタ倫理学)も、理論倫理学も、目的や方向性は異なるものの、「現実の問題」について論じます。倫理学基礎論が倫理学的探究の方向性を問うのは、「現実の倫理問題」のより適切な「解決」に結びついてこそ意義があります。また、「現実の問題」を用いて理論を彫琢しようとする理論倫理学であっても、彫琢された理論自体は「現実の問題」に関わってこそ存在意義があります。「現実の問題」にまったく関係しないなら、どんなに包括的で統一性のある理論であっても、倫理学の理論とはいえません。
また、「現実の問題」への回答を試みる狭義の応用倫理学であっても、理論倫理学や倫理学基礎論の探究を含むものでなければなりません。理論倫理学の成果としての倫理学理論なしには、「現実の問題」への回答を指示したり根拠づけたりすることができませんし、倫理学基礎論によって「現実の問題」の問い方そのものを検討しなければ、拙速で浅薄な回答しか導き出せないでしょう。
(註)
(1)「〜はよい/わるい」「〜すべきである/すべきでない」「〜しなければならない/しなくてもよい」などの、価値や当為に関わる判断(「規範的判断」)を、本稿では煩雑さを避けるため主に「正しい」という言葉で代表させます。したがって、本稿における「正しい」を「よい」(価値の判断)や「すべき」(当為の判断)と読み替えても同じです。
(2)「けだし、かかる[政治学(倫理学)的]探究においては知識がではなく、実践(プラクシス)が目的なのだからである」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第1巻第3章、1095a。訳文は高田三郎訳、岩波文庫版による。[ ]内は土屋による補足)
「実践とか行為(タ・プラクタ)にあっては、それぞれのことがらを単に観照的に考察して、それを単に知るということがではなく、むしろそれらを行なうということが究極目的なのだといえるのではなかろうか」(同、第10巻第9章、1179b)。