●「みんな」の幸福・利益とは?
前回、功利主義(公益主義)とは「自分も他者も含んだ『みんな(関係者全員)』の利益・幸福を目指す」立場だと述べた。だが、「みんな(関係者全員)の利益・幸福」といっても、自分の利益・幸福を重く見て他者の利益・幸福よりも優先するならば、公平に「みんな(関係者全員)の利益・幸福」を追求しているとはいえない。公平に「みんな(関係者全員)の利益・幸福」を追求するのは、自分の利益・幸福を、他者一人ひとりの利益・幸福と同じように重みづけることである。いいかえれば、たとえ誰の利益・幸福であっても、それを自分の利益・幸福とまったく同じように尊重すること、「みんな(関係者全員)」に含まれるあらゆる人について「一人を一人として数え、けっして一人以上には数えない」ことである。
このように、功利主義(公益主義)は、それぞれの人の利益・幸福を公平に取り扱うことに基づく。しかし、それだけでは、まだ「みんな(関係者全員)」の利益・幸福としてひとまとめに捉えられてはいない。ひとまとめに捉えるためには、一人ひとりの利益・幸福を足し合わせて、全体の総量*として見なければならない。
*この全体の総量としての「みんな(関係者全員)の利益・幸福」のことを「功利性」「公益」「効用」「功用」などという(いずれも utility という英語の専門用語の訳。「効用」は主に経済学で用いられる)。また、効用(功利性、公益性)を算出することを「効用計算」「功利計算」「公益計算」などという。
すなわち「功利主義(公益主義)」とは、帰結としてそれぞれ公平に重みづけされた一人ひとりの利益・幸福を足し合わせた、全体の総量としての「みんな(関係者全員)の利益・幸福」すなわち「効用(功利性、公益)」を最大にすることを目指す立場である。「功利主義(公益主義)」という言葉を最初に用いた18世紀英国の哲学者ジェレミー・ベンタム(日本語では「ベンサム」と表記されることが多いが、本人は「ベンタム」と発音していたらしい)はこのことを「最大多数の最大幸福」と表現した(『道徳および立法の諸原理序説』第1章)。この言葉は、当時の政治が「統治者や支配層の最大幸福」のために行われていたことに抗議し、公平で民主的な統治のあり方を示すものだった。
西洋の倫理思想史において功利主義(公益主義)は、ベンタムや19世紀の哲学者ジョン・スチュアート・ミルなど、19世紀までの英国を中心とした「古典的功利主義(古典的公益主義)」と、現代の「選好功利主義(選好公益主義)」とに大別される。また、功利主義(公益主義)を基にした経済学理論は「厚生経済学」と呼ばれる。
実際、国や自治体の政策や立法は、功利主義(公益主義)に基づいて行われることが少なくない。たとえば、日本国憲法第13条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と述べているが、これは《公共の福祉に反する場合には「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は尊重されなくてよい》ということでもある。この「公共の福祉」は、功利主義(公益主義)の「公益(功利性、効用)」を反映しているとも考えられる。
●古典的功利主義(古典的公益主義)
古典的功利主義(古典的公益主義)は、「利益・幸福」を「快(快楽)pleasure」として、「利益・幸福」の反対である「不利益(損)・不幸」を「苦(苦痛)pain」として、それぞれ捉える「快楽説」をとるが、ここでいう「快」とか「苦」は日常的な意味より広く、精神的なものも含む。
ベンタムは、個人や組織の行為によって人びとに引き起こされる「快」や「苦」を「強さ」「持続性」「確実性」「遠近性」「多産性」「純粋性」「それが及ぶ範囲」という七つの尺度で測り、ひとりひとりの快と苦の量を全員分足し合わせ、行為の影響を受ける「関係者」全員の快の総計から苦の総計を差し引く「効用計算(公益計算)」を想定した(『道徳および立法の諸原理序説』第4章)。その計算結果がプラスになる(関係者全員の快の総量が苦の総量を上回る)ならばその行為は「よい」行為であり、計算結果がマイナスになる(関係者全員の苦の総量が快の総量を上回る)ならばその行為は「わるい」行為ということになる。
このように、ベンタムにとって快と苦はあくまで「量」としてとらえられるものであった。これに対しミルは、さまざまな快や苦には、量の差には還元できない「質」の差もあると考えた。質の高い快と質の低い快の両方を経験した人は必ず質の高い快のほうを選び取るもので、たとえ質の低い快を大量に経験し質が高い快はわずかしか経験できないとしても、質が量に圧倒されることはない、とミルは考えた。彼の「満足した豚よりは不満足な人間のほうがいい。満足した愚か者であるよりは不満足なソクラテスのほうがいい」(『功利主義(公益主義)』第2章)という有名な言葉はこのことを表わしている。
だが、もしミルの言う「快や苦の質の差」が量に換算できなければ、結局のところ効用計算ができなくなってしまう。そこで功利主義(公益主義)の主流は「質」の差を認めず「量」のみで考えるベンタム流である。
●選好功利主義(選好公益主義)
古典的功利主義(古典的公益主義)で考慮される「快」や「苦」は、実際に本人が感じることができるものに限られる(快楽説)。しかし、たとえば遺言や遺産の使われ方のように、満たされた場合の「快」や満たされなかった場合の「苦」を本人が感じることができなくても、実現すれば本人にとって利益であり幸福であるし、実現しなければ不利益であり不幸である、と考えざるをえないような、希望や欲求もある。
そこで、こうした希望や欲求を考慮しないのは理にかなっていないとし、「利益・幸福」の内容を「快苦」ではなく「利害(利益と不利益)interest」として捉える功利主義が出現した。この「利害」は、選択肢の間の望ましい序列が実現するという意味で「選好 preference」とも呼ばれるので、こうした現代的な功利主義(公益主義)は「選好功利主義(選好公益主義)」と呼ばれる。
なお、「選好」とは本来は「序列」や「優先順位」を表す言葉だが、選好功利主義(選好公益主義)では欲求 desire と同じ意味に用い、それが充たされた事態(充足感ではなく、充足した状態)の実現を目指す(欲求充足説)。
●ヘアの選好功利主義
R. M. Hare, Moral Thinking: Its Levels, Method, and Point, Oxford University Press, 1981.
(内井惣七・山内友三郎監訳『道徳的に考えること』勁草書房、1994年。以下、引用のページは邦訳による)
・道徳判断は普遍化可能性をもつ
「ある状況を十分に、あるいは必要な程度に十分に記述するには、理論的には個体に言及する必要がない(実際上はふつう必要であるにしても)……その状況は、そこで可能な行為の選択肢とそれぞれの帰結も含め、普遍的な用語によって記述することができる」(pp.63-64)
「この状況に関してわれわれがある道徳判断を行うなら、これと正確に類似した他の状況に関しても同じ判断を下す用意がなければならない」(p.64)
・「普遍性(普遍的、全称的)」と「一般性(一般的)」の違い
一般的↔明細的(細部まで規定する)
普遍的(「全称記号に支配され個体定項を含まない」p.62)↔個別的(特殊的)
普遍的命題は「すべての」「あらゆる場合に」等の言葉が省略されている
例)(a)「決して人を殺すな」=「どんな場合でも決して人を殺すな」
(b)「自己防衛あるいは法的処刑の場合を除き、決して人を殺すな」=「自己防衛あるいは法的処刑の場合を除き、どんな場合でも決して人を殺すな」
(a)も(b)も普遍的。だが(a)は(b)よりも一般的(=(b)は(a)よりも明細的)
・直観的レベルの思考と批判的レベルの思考の区別
直観的レベル:直観的に正しいと思われる「一見自明な原則」(p.59 →ロスの「一応の義務」)に従って道徳的判断を下す、日常的なレベル
批判的レベル:「言語的直観[ことばの正誤を判断する直観]以外にはいかなる直観にも訴えない」(p.61)レベル
複数の道徳的直観が葛藤するような場面で「判断を行う主体が、義務が葛藤するこの状況だけでなく、それと類似するすべての状況にも適用できるような道徳判断を見出す」ことを課題とする(p.64)。
「批判的思考が目指すのは、直観的思考で使う一見自明な原則の最善の一組を選ぶことである」(p.75)「これらの原則の間の葛藤を解決するという役割も持つ」(p.76。強調は原文ではイタリック、邦訳では傍点。以下同様)
「異なる人々は互いに衝突する直観を持つものである。必要とされるのは、この事例ではどちらの権利が優越すべきか、あるいは、それらの権利の基礎にある原則のうちどちらが優越すべきかを決定する批判的思考の方法なのである」(p.231)
「この方法は、権利に関する原則も含め、直観的レベルで用いるための一組の道徳的原則を、その受容効用を根拠として選ぶ——つまり、問題にされている社会でそれらの原則を一般に受容したときに、公平に考慮された社会の人々の利益にとって総計で最善となる結果をもたらすように選ぶのである」(p.232)
・「べし」や「ねばならない」という判断が道徳的であるための条件
(1) 指令的(指図的)である
(2) 普遍化可能である
(3) 優越的 overriding である
「ある原則を優越的であるとして扱うとは、それが他の原則と葛藤したときに常にそれらよりも優越させるということであり、同様に、普遍化可能でない指令(たとえば単なる欲求)も含めて、他のどんな指令よりも優越させるということである」(p.85)
「直観的レベルにおける道徳的信念は優越的ではない。そうでありえないのは、これらがしばしば互いに葛藤を起こすからである」(p.266)
・批判的レベルの思考は、関係者全員の同じような選好に同じように配慮することを求める
「道徳概念の論理的性質によって課されることになる批判的思考の方法では、人々の選好の充足に注意を払うこと(なぜなら、道徳判断は指令的であり、ある選好を持つことはある指令を受け入れることだからである)、そして影響を受けるすべての人々が有する同等の選好には同等の注意を払うこと(なぜなら、道徳原則は普遍的でなければならないので、個人を選別することができないからである)が要求される」(p.136)
・他者の苦しみを知るとはどういうことか
われわれは「その状況に置かれた当の人々であるというとはどのようなことか」(p.137)を知らなければならない
「もしわたしが苦しんでいるなら、わたしは苦しみを終わらせたいという動機を持つ」(p.139)。「苦しみを訴えながらそれが嫌ではないと言い、また他の条件が等しい場合でさえ、それを終わらせたいあるいは避けたいという動機を持たないと主張するとしたなら、それは自己矛盾である。そのような動機が欠けているとしたなら、苦しみはないはずである」(p.140)。「自分が苦しんでいる状態にある場合、その状態にあるとはどんなことかについては、われわれ自身がその権威である」(p.141)
「わたしが彼の選好を持って彼の立場にあったとしたなら、自分に同じことが起きることについてわたし自身が彼と同等の嫌悪感を持つ」という条件が満たされなければ、彼にとってそれがどんなに苦しいことであるかをわたしが知っている、とはいえない(p.141)。「わたしが彼の選好を持った状況を想像しなければならない」
・他者と自分の選好の間の葛藤を、他者の選好をそのままに自分に内面化することで、自分の中の選好の葛藤に置き換える
二者間の選好が葛藤するときにも「自分自身の選好が葛藤する場合にわれわれが採用するのと同じ解決法をとってはならないはずはない」(p.163)
「もしわたしが他人の選好について十分な知識を持てば、わたしが彼の状況に置かれたとした仮定の場合にわたしが受ける仕打ちに関し、彼の選好と同じ選好を獲得することになる。[中略]そうすると、これは事実上、異なる個人の間での選好や指令の衝突ではなく、同一個人内での葛藤にほかならない——衝突している選好はどちらもわたしのものである。そこで、わたしはその葛藤をもともとわたし自身のものである二つの選好の間の葛藤と全く同じ方式で扱うことになる」(p.163)
「多者間の事例も、もう最初の見た目ほどむずかしくはない。なぜなら、どれほど複雑でどれほど多くの人々が関係していようと、他の人々の選好についての十分な知識が得られれば、異なる個人間の衝突はやはり同一個人内での葛藤に還元されるからである」(p.165)
→「個人個人の選好をわれわれの間で公平な一つの全体的選好へと調整して統合」される。「わたしの主張は、この公平な選好がすべての人にとって同じであり功利主義的であるということである」(p.340)
★影響を受けるすべての人々の選好を、一人の心の中にそのまま再現すれば、効用計算をその一人の内面で行うことができる
=影響を受けるすべての人々の選好の総量を最大化させることは、個人の心の中のさまざまな選好の総量を最大化させることとして処理できる
・「いま現存しない経験を正しくしかも確信をもってわれわれ自身に再現する」(p.188) ことができるか?
→「哲学的懐疑論を別にすれば、再現できるという確信をわれわれが持っていることに疑いはない」(同上)
過去のわれわれ自身の選好→「記憶によって再現する」(p.189)
未来のわれわれ自身の選好→「未来の経験は類似した条件のもとで過去に経験した記憶のあるものに類似すると前提した上で、記憶と帰納との結合によって再現する」(同上)
他者の選好→「われわれが他者の経験を自分自身に再現するのは、自分自身の経験との類推による」(同上)
ただし「他者の選好やわたし自身の未来の選好を見積もる際には、わたし自身の[見積りに]先立つ現在の選好は考慮から外さなければならない。[中略]自分自身をも含めて、誰をも1人として扱わなければならない。すなわち、他者からして欲しいと望む(つまり、われわれが彼らの選好を持って彼らの状況に置かれた)ときと同じように彼らに対して行ない、また隣人を自分自身と同じように(自分以上にではなく)愛すべきなのである」(pp.192-193)