●進化論的倫理学 evolutionary ethics とは
「規範(ないしその基盤[共感など])は、生物としてのヒト(ホモ・サピエンス)が、進化する過程で、生存戦略として獲得してきたものだ」
いいかえれば
「ヒトは突然変異として規範(ないしその基盤)を持ったために、自然における生存闘争を生き残った」
という考え方
——この中に含まれる主張
(1) ヒト(人類)は生物種として共通の規範(ないしその基盤)を個体同士の間でもっている
(2) ヒトは生物として特別な存在ではなく、他の生物種(とくに大型類人猿)と連続した共通点があり、規範(ないしその基盤)に関しても同様である
(3) ヒトが進化の過程で規範(ないしその基盤)を獲得したことは、鳥のくちばしの形など、あらゆる生物の特徴と同じように、生物種としてのヒトの一特徴にすぎないのであって、なんら特別に価値のあることではない
……具体的には
(1) ヒトは生物の一種として、生存闘争が行われている自然の中で、生き残ろうとする性質をもっている
(2) その性質は遺伝子が発現したもの(表現型)である
(3) その性質は利己的なものと利他的(協力的)なものの両方として発現しうる
●チャールズ・ダーウィン『人間の由来』
(Charles Darwin, The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex, London: John Murray, 1st edition, 1871. 頁付けは原則として[左記のロンドン版初版:1877年発行の新版を収録したWilliam Pickering社1989年発行の全集版]で示すが、初版になく1874年John Murray社発行の第2版で追加ないし修正された文章に関してはその都度注記し[第2版:全集版]で示す)
「[人間やとりわけ霊長類を含む]高等動物はみな同じ感覚機能、直観、および知覚を持つ——また、似たような情念、情愛、および情動を有し、さらに複雑な嫉妬心、猜疑心、対抗心、感謝の念、および度量の大きさなどさえ持っている」[48-49:83]
「親子間の愛情も含めたはっきりとした社会的本能を備えているならば、どんな動物でも、その知的能力が人間と同程度あるいは近い程度にまで発達したとたん、不可避的に道徳的感覚ないし良心を獲得するに違いない」[71-72:102]
「しばしば人間も、おそらくミツバチやアリと同じように、快楽はまったく意識せず、衝動的に、つまり本能や長く身についた習慣から、行為するようだ。火事のように大きな災害のもとで、一瞬のためらいもなく仲間を助けようとしているとき、快楽を感じることなどほとんどありえない。まして、助けようとしなかった時に後で感じるかもしれない不満足についてかえりみる暇などない。もし後になって自分の行為をかえりみたなら、快楽ないし幸福を追求することとは全く異なる衝動的な力が自らの内にあると感じるだろう。そして、これが、深く根ざした社会的本能であるように思われる」[第2版120:124-125]
「われわれがいかに世論に重きを置こうとも、自分の仲間たちの称賛や非難をわれわれが気にかけるということは共感に依存していることを忘れるべきではない。そして、この共感は、これから述べるように、社会的本能の欠かせない部分を構成しており、まさしく社会的本能の礎石なのだ」[第2版99:103]
「下等動物の場合、社会的本能は、その種にとっての一般的幸福のためというより、一般的善のために発達してきたというほうが、より適切なように見える。一般的善という用語は、その種が置かれた生活条件において、完全な能力を備え、十分に活力があり健康な個体を、できるだけ多く育てること、と定義できよう。人間も下等動物もその社会的本能は、まちがいなくほとんど同じ段階を経て発達してきたので、可能なら、どちらにも同じ定義を使って、共同体にとっての一般的幸福というより、一般的善ないし福利を、道徳性の基準とするほうが賢明であろう。しかしこの定義を社会倫理に関して用いるのは、おそらく制限しなければならないだろう」[第2版120-121:125]
●ネオダーウィニズム(遺伝学と統合された進化論)
生存闘争における有利さの度合い=繁殖率=適応度(統計的な平均値である点に注意)
(1) 社会的生物(ハチ、アリなど)の利他行動(自らの集団やそれに属する個体に対して献身的に働くように見える行動)を「血縁淘汰」で説明(W. D. ハミルトンら)
:「各個体は自らの遺伝子がなるべく多く子孫の個体に受け継がれるように行動している」(「利己的な遺伝子」= R. ドーキンスによる比喩)
→これをヒトにあてはめようとしたのがE. O. ウィルソンの「社会生物学」
(2) 血縁関係にない集団(アリとアブラムシ、ミツバチと特定の植物など異種間の場合も含む)においても「相互的[互恵的]利他性 reciprocal altruism」は双方の個体の利益になり、ひいてはその遺伝子が子孫に多く受け継がれることに貢献することを説明(R. トリヴァーズら)
→「共棲(共生)」(もともと異種間の生態学的現象に関する生物学用語。それが人間社会に関する用語に転用されている)
※「進化的に安定な戦略 Evolutionarily Stable Strategy, ESS」=遺伝子が競い合ってなるべく多く子孫に受け継がれるように行動し、一定の平衡状態を生み出したときの、その行動パターン(J. メイナード=スミス)
「戦略」=「あるタイプの状況でどのように(無意識的に)行動するかという一般的な方針あるいは規則」を意味するゲーム理論の用語
●マイケル・ルース『ダーウィンを真剣に受け止める』
(Michael Ruse, Taking Darwin Seriously, Basil Blackwell, 1986. 頁付けは原書、強調は土屋による)
「ダーウィン主義者は、特定の種類の行為を是認し他の種類の行為を否認するという、遺伝子にもとづく傾向性をわれわれが持っていると主張する。しかし、こうした傾向性は単なる好き嫌い以上のものだ。そこからわれわれは、正真正銘の道徳性とその進化に向かって——(他者と協調して働き繁殖を促進するという生物学的な意味での)「利他性」から(正真正銘の正・不正に関する感情を要するという文字どおりの意味での)利他性へと——動き始める。
論理的には、ダーウィン主義は、われわれが道徳的であることを要求するわけではない。「利他性」は、アリの場合のように、確固たる遺伝的統制によってもたらされることもできただろう。だが、その場合には脳の能力という長所や脳のもたらす柔軟性は無駄になっていただろう。逆に「利他性」は、純粋に理性的な、意識的に自分で下す判断によってもたらされることもできただろう。だが、この場合には、確率やその他の見込みなどを計算するために、非常に強い脳の力が必要だっただろう。しかも、純粋な理性能力は、実際の生活には素早く対応しきれなかったかもしれない(コンピュータでさえ、チェスのゲームを行なうとき、すべての選択肢を時間内に探索しつくすことはできない)。かくして自然淘汰は中道的な選択肢を選び、(われわれはそうだと知らないが)生物学的な意味で「利他的」な行為へと向かわせるような後成的規則*を、われわれのうちに組み込んだのだ。
この中道的な選択肢において鍵となるのが道徳性である。われわれが自分を——おそらく他の利己的感情に逆らってまでも——行為に駆り立てるために、道徳性に特有の特徴である指図する力を備えた規則を持つ、ということが、ダーウィン主義者の主張にとっては絶対的に根本的なことなのだ。兄弟姉妹間の相姦に関する場合のように、われわれの感情は、是認された行為を「正しい」とし否認された行為を「不正」とする(生得的でもある)感覚によって支えられている」(221-222)
「われわれ人間は [他の個体との協調によって繁殖を促進させるという生物学的な意味での]「利他性」を実現するために[道徳的な意味で]利他的なのだ」(222)
*生物の遺伝子型が表現型(形質)に発現する過程ないし発現した結果を支配する規則であり、自然淘汰にさらされる。感覚によって外界からの情報を受容する仕方を規制する一次規則と、外界から得た情報を生物学的適応に役立つよう処理する仕方(とりわけ行動)を規制する二次規則の二種類からなる。(内井惣七『進化論と倫理』世界思想社、1996年、pp.155-156を参照)
★もちろん、すべての規範が進化の産物というわけではない。ヒトが進化の過程で獲得した規範があるとすれば、それは「自分の身を守ろう」「血縁者や共同体の成員を守ろう」といったような、ごく根源的で抽象的な「原理」でしかないだろう。ホッブズの「自然法」のうち基本的なものは、その候補なのかもしれない。また、規範の基盤としての「共感」は、そのようにしてヒトに備わったものかもしれない。
だが、それらは厳密に言えば、「〜すべきだ」「〜しなければならない」というような規範としてではなく、むしろ「〜したい」「〜せずにはいられない」というような欲求や情念(「道徳的欲求」や「道徳的感情」)として、私たちに感じられているはずだ。進化論的倫理学(や道徳心理学や行動経済学)が探究しているのは、規範そのものの起源ではなく、道徳的な感情や欲求の起源である。カント的な言い方をすれば、進化の過程で生物としてのヒトに備わった規範的なものは「自然法則」の一部である。私たちはそのようにできているのであって、それはアリストテレス的な言い方をすれば「それ以外のありようがない」「おのずとそうなってしまう」必然的なことがらである。「それ以外のありようがある」非必然的な(自由な、選択できる)ことがらではなく、私たちの意思では変えられないので、「そうすべき」という表現が当てはまらないことがらなのだ。
また、受け継がれた遺伝子の多寡や、遺伝子型が表現型としての性格や行動にどの程度発現するかは、個体差がある。たとえば「共感」という道徳的感情が遺伝子に基盤をもつとしても、どのくらい(生物としての)そのヒトが「共感的」であるかは、個体によって異なり、とても「共感的」なヒトもいれば、あまり「共感的」でないヒトもいる。もし、共感的すぎることや共感的でなさすぎることが、その個体の生存や、子孫の繁殖率にとって不利になるのなら、「適度(中くらい)に共感的なほうがよい」という規範らしきものが成り立つだろう。しかし、そうだとしても、この「適度(中くらい)に共感的なほうがよい」ということは、「適度に共感的ならば個体の生存可能性や子孫の繁殖率が高まる」という事実を述べたものにすぎず、厳密には規範ではない。