●Milton Mayeroff, "On Caring," The International Philosophical Quarterly, September 1965.
(下記On Caringに再録。下記邦訳付録Ⅰ、pp.183-215。以下引用は邦訳による)
「私がいま考えている活動とはいかなるものかというと、これは、父親が子供を最も重要な意味でケアしている——つまり、その子供が成長し、自己実現するのをたすけている父親の活動のようなものであるといってよい。[中略]この論文を通して私が心に描いているある特定の例は、わが子をケアする父親なのであるが、[後略]」(p.184)
★「ケア倫理[学]」という言葉はギリガン以降に普及し、「フェミニスト倫理学」と重なりつつ展開してきたが、ギリガンに先立つメイヤロフは、子供に対する父親すなわち男親のケアを典型として捉えていた。
●M. Mayeroff, On Caring, Harper, 1971.
(田村真・向野宜之訳『ケアの本質——生きることの意味』ゆみる出版、2006年。以下引用は邦訳による。強調は原文ではイタリック、訳文では傍点)
「一人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである。たとえば、わが子をケアする父親を考えてみよう。[中略]ケアすることは、自分の種々の欲求を満たすために、他人を単に利用するのとは正反対のことである。[中略]相手が成長し、自己実現することをたすけることとしてのケアは、ひとつの過程であり、展開を内にはらみつつ人に関与するあり方であり、それはちょうど、相互信頼と、深まり質的に変わっていく関係とをとおして、時とともに友情が成熟していくのと同様に成長するものなのである。[中略]
一人の人間の生涯の中で考えた場合、ケアすることは、ケアすることを中心として彼の他の諸価値と諸活動を位置づける働きをしている。彼のケアがあらゆるものと関係するがゆえに、その位置づけが総合的な意味を持つとき、彼の生涯には基本的な安定性が生まれる。[中略]この世界の中で私たちが心を安んじていられるという意味において、この人は心を安んじて生きているのである」(pp.13-14)
「ケアの相手が成長するのをたすけることとしてのケアの中で、私はケアする対象(一人の人格であったり、理想であったり、思いつきであったりする)を、私自身の延長のように身に感じとる。またそれと同時に、その対象が本来持っている権利ゆえに私が尊重する確かな存在として、私とは別のものとしてそれを身に感じとるのである」(p.18)
「私は他者を自分自身の延長と感じ考える。また、独立したものとして、成長する欲求を持っているものとして感じ考える。さらに私は、他者の発展が自分の幸福感と結びついていると感じつつ考える。そして、私自身が他者の成長のために必要とされていることを感じとる。私は他者の成長が持つ方向に導かれて、肯定的に、そして他者の必要に応じて専心的に応答する」(p.26)
「ケアにおいては、私は他人を直接的に知るのである」(p.36)
「結局ケアは、明確な知識と暗黙の知識、それを知っていること、それをどうするかを知っていること、そして直接的知識と間接的知識、これらのすべてを含んでいるものであり、それら全体は、他人の成長を援助するうえでさまざまに関係している」(p.37)
「ケアには、その相手が、自らに適したときに、適した方法で成長していくのを信頼(trust)することが含まれる」(p.50)
「ケアしていくうえで無私(selflessness)という要素が入ってくるが、これはパニックに出合ママって自分を見失ったり、他の人と協調していくうえで、ある程度他者と合一しているときに見られる無私とは全く異なっているのである」(p.68)
「他者が成長していくために私を必要とするというだけでなく、私も自分自身であるためには、ケアの対象たるべき他者を必要としているのである。[中略]私は、自分自身を実現するために相手の成長をたすけようと試みるのではなく、相手の成長をたすけること、そのことによってこそ私は自分自身を実現するのである」(pp.69-70)
「ケアするには、ときに特別な資質あるいは特殊な訓練を必要とする。すなわち、一般的なケアができるということのほかに、ある特定の対象に対してもケアできなければならない」(p.75)
「もし自分が相手のためにケアしようとするならば、その相手にふさわしい能力がなければならないし、また、その相手に対してケアができるだけの”力”をぜひともそなえなければならない」(pp.75-76)
「自分以外の人格をケアするには、私はその人とその人の世界を、まるで自分がその人になったように理解できなければならない。私は、その人の世界がその人にとってどのようなものであるか、その人は自分自身に関してどのような見方をしているかを、いわば、その人の目でもって見てとることができなければならない」(p.92)
「相手の気持になるといっても、私は自分自身を見失うわけではない。私は自分のアイデンティティを保っており、相手と相手の世界に対する自分自身の反応をよく意識している」(p.94)
「私は自分自身に無関心であったり、自分自身をまるで物体のように取り扱ったり、また自分自身に初めて会ったような気持を持つことがあるが、それと同様に、自分自身の中の成長しようという欲求にこたえて、自分自身をケアすることもある。私は、いわば自分自身の保護者となり、自分の人生に責任をとるのである。自分自身に対するケアということは、“ケアすること”という属(genus)の中の種(species)の一つなのである」(p.103)
「私たちは全面的・包括的なケアによって、私たちの生を秩序だてることを通じて、この世界で“場の中にいる(in-place)”のである。これは“自分にあわない場”から逃れ、自らの”場”を求めて”場の外にいる(out of place)”ことと対照をなすものであり、このとき、人は“場”に対して無関心、無感覚となっている。[中略]自らを”発見する”人が、自らを“創造する”ことについても大いに力をつくしたのと同様なやり方で、私たちは自分たちの場を発見し、つくり出していくのである」(pp.115-116)
「私のケアが、私が”場の中にいる”ことができるほど十分包括的なものであるとすれば、それらのケアは互いにある調和がとれており、そこに矛盾があってはならない」(pp.121-122)
「自分が”場の中にいる”ことができるほど十分包括的なケアについて、その対象となっているものを、私と”補充関係にある対象(appropriate others)”と呼ぶことにしよう。”補充関係にある”という言葉自体はもちろん重要なことではない。”自己完成する(fulfilling)”という言葉をそのかわりに用いてもよい」(p.124)
「私と補充関係にある対象を見い出し、その成長をたすけていくことをとおして、私は自己の生の意味を発見し創造していく。そして補充関係にある対象をケアすることにおいて、”場の中にいる”ことにおいて、私は私の生の意味を十全に生きるのである」(p.132)
「不動であり、一般的にその人の生き方と結びついている”場の中にいる”ということの中には、ある安定性がある。[中略]
この安定性を基本的確実性(basic certainty)と表現したとしても、それで真実をつかんだとか確かな知識を持っているといえるわけではない。[中略]基本的な確実性というのは、岩にしがみついているような状態というよりも、世界に根をおろした状態というほうが当っている。こうした状態のおかげで、私は開かれた存在として他を受容できる状態にある」(pp.140-142)
「私と補充関係にある対象によって必要とされている、という事実からくる帰属感を深く身に感じとると、その経験は私を根底から支えるのである。これこそ基本的確実性の一要素なのである」(pp.143-144)
「内面と外面との統合が、基本的確実性のもう一つの要素である」(p.144)
「混乱の要素を大かた排除することによって、私たちは基本的確実性の中に明澄性を発見する。ケアを中心として生を再創造することにより、私の生の中に単純化が生まれる。私のケアと相容れない多くの不適切なものが排除されると、私は自分自身が何者なのか、何をしようとしているかについて、根本的な明澄性を獲得するのである」(p.145)
「私が自己の生の意味を生きているとき、生きることの過程がそれ自体で十分なものと身にしみて感じられる」(p.149)
「私が自己の生の意味を生きているとき、自己の生の中へしだいに了解性(intelligibility)が浸透してくる。[中略]了解性とは、私の生活に関連しているものは何か、私が何のために生きているのか、いったい私は何者なのか、何をしようとしているのか、これらを抽象的なかたちではなく、毎日の実生活の中で理解していくことなのである」(p.154)
「自律(autonomy)ということは、私が自己の生の意味を生きることである」(p.161)
「信(faith)は狭義においても広義においても、”場の中にいる”ということの中に見出される」(p.172)
「信について、狭義の意味では、何者かに信をおく(faith in)ことである[中略]、一方、広義ではこれを、信のうちに(in faith)生きることだと言ってもよいであろう」(p.175)
「感謝(gratitude)は、”場の中にいる”ということから生ずる自然な発露である」(p.176)
●Carol Gilligan, In A Different Voice: Psychological Theory and Women's Development, Harvard University Press, 1982.
(川本隆史・山辺恵理子・米典子訳『もうひとつの声で——心理学の理論とケアの倫理』風行社、2022年。以下、引用文は邦訳により、邦訳のページを記す。〔 〕は訳者による補足、[ ]は土屋による補足)
「過去10年というもの、筆者は、道徳性や自分自身について人びとが語る言葉に耳を傾けてきた。そのうちに、こうした人びとの声の中に違いを聞き分けるようになった。すなわち、道徳的問題の語り方には二通り、自他の関係性についての叙述様式には二通りある」(序、p.55)
「筆者が記述するもうひとつの声は、ジェンダーではなくテーマを特徴とする。テーマと女性のむすびつきは経験的に観察されたことであり、その発達をたどるのは基本的に女性の声を通してである。しかし、このむすびつきは絶対的なものではない。そして、男性と女性の声がここで対照されるのは、二つの思考様式の違いを強調し、それぞれの性についての一般化を表すよりはむしろ、解釈の問題に焦点を当てるためである。発達をたどる際に、筆者はそれぞれの性においてこれらの声が相互に作用することを指摘し、両者の邂逅が危機と変化の時を示していることを示唆する。記述の違いの起源について、もしくはより広い母集団、文化全体、または時間の経過に伴うそれらの分布については、何も主張されていない。明らかに、これらの違いは社会的文脈で生じる。つまり、社会的地位と権力という要因が生物学的な生殖機能と組み合わさって、男性と女性の経験と両性間の関係とを形作る社会的文脈である。筆者の関心は、経験と思考の相互作用、さまざまな声とそれらが生み出す対話、私たち自身や他の人の話に耳を傾ける方法、私たちの人生について語る物語にある」(同、pp.55-56)
「女性の発達を解釈する際の困難を生じさせている関係性についての心像の違いは、とある二人の11歳の子どもたちの道徳判断をみるとよくわかる」(p.98)
…その一人は女の子(エイミー)、一人は男の子(ジェイク)
「どちらも頭脳明晰で言葉も達者である。また、少なくとも11歳児なりに抱いている野心を見る限り、二人とも生物学的性別によって社会の中で担うべき役割を決めつけるような安易なカテゴリー化に抵抗していた。なぜそう言えるかといえば、エイミーは科学者を志していて、一方のジェイクは数学よりも国語を好んでいたからだ」(p.99)
二人は、コールバーグの開発した、葛藤を解決していく論理を分析することで青年期の道徳性の発達段階*を測定する方法に則り、葛藤を含む事例(ハインツのジレンマ**)を提示され、どうすべきか、それはなぜか、質問された。
*コールバーグの道徳的発達の六段階
(Lawrence Kohlberg, "From 'Is' to 'Ought'," in T. Mischel ed., Cognitive Development and Epistemology, Academic Press, 1971. 訳文は内藤俊史訳「『である』から『べきである』へ」永野重史編『道徳性の発達と教育』新曜社、1985年、pp.22-23より要約。強調は訳文では傍点)
Ⅰ 慣習的水準以前
第1段階:罰と服従への志向
物理的[身体的]結果によって行為の善悪を判断し、結果がもつ人間的な意味や価値を無視する
第2段階:道具主義的な相対主義志向
正しい行為は自分の欲求や他人の欲求を満たす手段と考える。人間関係は取引の場。物質的・実用主義的
Ⅱ 慣習的水準
第3段階:対人的同調あるいは「よい子」志向
よい行為とは他人を喜ばせたり助けたりして他人から肯定されることと考える。多数派の行動や「自然な(ふつうの)」行為に同調。行為の是非は意図の善悪によって判断される
第4段階:「法と秩序」志向
権威や規則、社会秩序の維持を指針とする。義務を果たす/権威への尊敬を示す/既存の社会秩序を維持する行為が正しい
Ⅲ 慣習的水準以降、自律的、原理化された水準
第5段階:社会契約的な法律志向
正しい行為は一般的な個人的権利や社会全体によって吟味され一致した規準によって定まると考える。権利は私的な価値観や見解に関することであり、それらの相違を意識し、一致に達するための手続き的規準を強調。法的な観点を強調するが法は改正できると考える。法の領域外では、自由な同意と契約が拘束力のある義務を生む。米国の政府や憲法における「公式の」道徳性
第6段階:普遍的な倫理的原理の志向
正しさは論理的包括性・普遍性・一貫性に訴え、自分で選択した抽象的な「倫理的原理」(公正、人権の相互性と平等性、人格の尊厳の尊重などという普遍的原理)に従う良心によって定められると考える
**ハインツのジレンマ(葛藤)
(同、p.10による)
「ヨーロッパで、一人の女性がたいへん重い病気のために死にかけていた。その病気は、特殊なガンだった。女の命をとりとめる可能性をもつと医者の考えている薬があった。それは、ラジウムの一種であり、その薬を製造するのに要した費用の十倍の値が、薬屋によってつけられていた。病気の女性の夫であるハインツは、すべての知人からお金を借りようとした。しかし、その値段の半分のお金しか集まらなかった。彼は、薬屋に、妻が死にかけていることを話し、もっと安くしてくれないか、それでなければ後払いにしてはくれないかと頼んだ。しかし、薬屋は「ダメだよ、私がその薬を見つけたんだし、それで金儲けをするつもりだからね。」と言った。ハインツは、思いつめ、妻の生命のために薬を盗みに薬局に押し入った。
ハインツは、そうすべきだっただろうか?その理由は?」
「11歳のジェイクは、ハインツは薬を盗むべきだ、という意見を最初からはっきりと持っていた。コールバーグの考え通り、ジェイクはこのジレンマを所有の価値と生命の価値との衝突であると整理した上で、論理的に考えて生命の方が優生されるべきだと考え、自分の選択の根拠としてその論理について語った」(p.100)
(「第一に、人間の命はお金よりも価値があります。薬剤師は、もし1000ドルしか儲けられなかったとしても生きてはいけるでしょう。でも、もしハインツが薬を盗まなかったら、ハインツの妻は死んでしまいます」同上)
「論理の力に魅了されて、この11歳の少年は真理(truth)の存在を数学の中に見出す。[中略]ジェイクは、モラル・ジレンマは『数学の問題を人間に当てはめたようなもの』だと考えており、ジレンマを方程式の形に整理して、そこから解を導く作業を進める。ジェイクは、自分は解を合理的に導き出しているので、理性に従って考える人であれば誰でも自分と同じ結論に至ると考えている。したがって、裁判官も盗みがハインツのなすべき正しいことだと考えるだろう、とジェイクは想定しているのだ。とはいえ、ジェイクは論理の限界にも気づいている。道徳の問題に正解はあるかと尋ねられると、行為を方向づける変数は変化しやすく複雑なので、『あるのは正解ではなく、正しい判断と間違った判断だけです』と答える」(pp.101-102)
「ジェイクとは対照的に、このジレンマに対するエイミーの回答からは、大きく異なる印象を受ける。エイミーの回答は、論理的思考の失敗、あるいは自分自身で思考する能力の欠如によって、発達が阻害されているようなイメージを提示しているのだ」(p.103)
(「うーん。ハインツが盗むべきだとは思いません。盗む以外の方法もあるかもしれないと思います。たとえば、お金を人に借りるとか、ローンを組むとか。でも、とにかく本当に薬を盗むべきではないと思います。でも、ハインツの妻も死ぬべきだとは思いません」p.104)
「なぜ薬を盗むべきではないのかと尋ねられると、エイミーは所有についても法律についても言及せず、盗みをすることによって生じる、ハインツと妻との関係性への影響について考える」(同上)
(「もしハインツが薬を盗んだら、妻を助けることができるかもしれません。その時はそれでよいかもしれないけど、きっと盗んだら牢屋に行かなければならなくなるでしょう。そうしたら、妻はもっと病気が悪くなってしまうかもしれないけれど、ハインツはもう薬を持ってくることができないから、よくないと思います。だから、本当にただただよく話し合って、お金をつくる他の方法を見つけるべきです」同上)
「エイミーはジレンマの中に、人間に応用された数学の問題ではなく、長期的に考えるべき関係性のナラティブを見出している。そして、妻が継続的に持ち続ける、夫にいてほしいというニーズと、夫が継続的に持ち続ける、妻への憂慮を見据えながら、関係性を断つよりもむしろ維持する方法で、薬剤師のニーズにも応えようと模索する。妻が生き続けることを関係性の維持に結びつけて語るのと同様に、エイミーは妻の命の価値をも関係性の文脈の中で捉える」(pp.104-105)
「エイミーは、世界というものを独り立ちしている人びとの集合体ではなく、関係性で構成されたものだと考えている。また、世界は、様々な規則を体系立てたシステムではなく、むしろ人間同士のつながりによってまとまると考えている。それゆえに、このジレンマを難しくしているのは、薬剤師がハインツの妻のニーズに応えられなかった点にあると考える」(p.106)
「ジェイクが法律には『間違いがある』と思っているのと同様に、エイミーは『世の中、もっと分かち合いさえすれば、人は盗まなくて済むようになる』と信じていて、このシナリオ自体が間違いだと思っている。つまり、どちらの子どもも他者の同意を得る必要性を認識しているのだ。ただ、同意に至るための調停の方法として想定していることが異なっている」(p.107)
「道徳性の発達段階に関してコールバーグが立てた定義や道筋に沿ってエイミーの回答を見てみると、エイミーの道徳判断は、男子に比べて、成熟度において丸々一段階分も低い水準にあるといえる。第二段階と第三段階に散らばるように評価される[後略]」(p.108)
「エイミーの知っている世界は、コールバーグが設計したハインツのジレンマを通して映し出される世の中とは別物だ。エイミーの世界は、関係性とさまざまな心理的な真実の世界であり、人同士のつながりの存在に気づくことが、互いへの責任の存在を認めること、すなわち相手に応答する必要性を理解することにつながるような世の中である」(p.109)
「エイミーはこのジレンマの解決策として、人とのつながりを断ち切るのではなく、コミュニケーションを通してネットワークを活発化させて、むしろそのつながりを強めることで、ハインツの妻がそのネットワークから排除されないようにする、という考えを示した」(同上)
「女子は、男性の経験から抽出される関係性のカテゴリーに当てはめることができないように見える。そのため、これまで人間の発達は、破綻しがちなつながりの心像を危険な分離のイメージに置き換えることによって説明されてきたが、この考え方の土台にある関係性に関する前提を、再考する必要性がつきつけられる」(p.127)
「不平等性とつながり合いの経験は、親と子の関係から生まれ、その後、正義とケアの倫理を誕生させる。これらの倫理はすなわち、人間関係の理想である。一つには、自己と他者が同等の真価を有する存在として扱われ、力の違いに関わらず物事が公正に進むという理想像だ。もう一つは、すべての人が他人から応えてもらえ、受け入れられ、取り残されたり傷つけられる者は誰ひとり存在しないという理想像である。こうした緊張関係にある相異なる理想像は、人間関係の相矛盾する二つの真理を映し出している。それは〔第一に〕、人間は他者とつながって生きることによって初めて、それぞれを分離してみることができるという真理であり、〔第二に〕人間は他者を自己から区別して初めて、関係性を経験することができるという真理である」(pp.173-174)
「女性たちは道徳的問題を、権利と規則の問題としてではなく、関係性におけるケアと責任の問題として組み立てる。その上で、自身の道徳的思考の発達を、責任と関係性についての理解の仕方の変容と結びつけて捉える。ちょうど、正義としての道徳性という構想が、発達を平等性と互恵性の論理と結びつけて捉えるのと同様である。したがって、ケアの倫理の土台をなす論理は関係性に関する心理的な論理であるといえる。それは、正義のアプローチを特徴づける、公正性という形式的論理学とは対照的な論理である」(p.195)
「ケアの倫理とは、人間関係に関する知識の蓄積を反映したものである。この倫理は、自分と相手が相互依存的であるという洞察を中心に据えて展開する」(p.197)
「われわれは1000年以上にもわたって、男性の声と、男性の経験が情報を提供する発達理論を聴いてきて[、]ごく最近になって、女性の沈黙に気づくようになっただけでなく、女性が語るときに何をいっているのかを聞き取るのが難しいことにも気づくようになった。それでも、女性の〔男性とは〕異なるもうひとつの声の中にこそ、ケアの倫理の真実、関係性と責任のむすびつきが存在しており、反対につながりそこねるところに攻撃の起源がある。女性の人生の〔男性とは〕異なる現実を見落とし、女性の声に潜む差異を聞き漏らすのは、社会的な経験や解釈の様式が一つしかないと決めてかかることに端を発しているからでもある。代わりに二つの様式を設定してみることで、われわれは、女性と男性〔双方の〕生活における分離と愛着の真実を見、これらの真実が、いかに異なる言語と思考の様式によって支えられているのかを認識するような、人間の経験についてのより複雑な解釈にたどりつく。
責任と権利の間の緊張が、いかに人間の発達の弁証法を支えているのかを理解することは、最終的にむすびつく二つの異なる経験様式の一貫した高潔さを了解することである。正義の倫理が平等の前提——誰もが等しく扱われるべし——から生じるのに対し、ケアの倫理は非暴力の前提——誰も傷つけてはならぬ——にもとづく。成熟を表現するとき、両方の視座がひとつとなり明らかにしたことは、不平等が、非対称の関係において〔その場にかかわる〕両者に不利に作用し、同様に、暴力もまた、それにかかわるすべての人間に対して破壊的〔に作用する〕ということである。公正とケアとのこうした対話は、両性の関係についてより良い理解をもたらすだけではなく、大人の活動と家族関係をより包括的に描き出してくれる」(pp.392-393)
●Nel Noddings, Caring: A Feminine Approach to Ethics and Moral Education, University of California Press, 1984.
(立山善康ほか訳『ケアリング——倫理と道徳の教育・女性の視点から』晃洋書房、1997年。以下引用は邦訳による。強調は原文ではイタリック、訳文では傍点)
「わたしは、けっして、女性だけが、世の中すべてのケアを与えるべきだと主張しているのではありません。ここで論じたのは、ケアリングが、歴史的には女性の役割であったこと、そして、女性たちは、何世紀にもわたる経験を経て、ケアを与えることの実践と、道徳的な方向づけの両方に寄与する、なにか特殊なものを身につけていること、ケアリングは、そうした経験から芽ばえたものだということです」(日本語版への序文、p.i)
「倫理学は、おもに父の言葉で、つまり原理や命題という形で、正当化や公正や正義といった用語で議論されてきたといってもよい。母の声は、聞かれなかった。人間のケアリングと、ケアしたり、されたりした記憶を、わたしは倫理的な応答の基礎を形成するものであると主張しようと思うが、それは倫理的行動の結果としてしか注意が払われてこなかった。そこで倫理学は、これまではロゴス(logos)、つまり男性の精神によって導かれてきたけれども、もっと自然でたぶんもっと有力な取り組み方がエロス(eros)、つまり女性の精神を通して行われるのだと、言ってよいのかもしれない」(序論、p.1)
「曖昧な言葉づかいのない、しっかりした概念的基盤を打ち立てるために、わたしは、人間関係の2つの集団に、一方は『ケアするひと(one-caring)』、もう一方は『ケアされるひと(cared-for)』という名前を与えてきた」(序論、p.5)
「つりあいを保ち、混同を避けるために、わたしは、一貫して、総称的な『ケアするひと』と、全称的な女性形の語『彼女(she)』を結びつけ、『ケアされるひと』と男性形の語『かれ(he)』を結びつけてきた」(同上、p.6)
「わたしは、大部分の議論で、『道徳的[moral]』よりも『倫理的[ethical]』を用いるが、しかし、そうする際、倫理的にふるまうことは、道徳的であることの意味についての、受け入れ、正当化できる説明を手引きとしてふるまうことであると想定している」(p.42)
「わたしたちの注目の焦点は、いかにして他のひとと道徳的に接するかという点にある」(同上、P.7)
「わたしは、普遍的なケアリング——すなわち、万人に対するケアリング——という考え方を拒否したいと思う。その理由は、現実問題として、私たちは、抽象的な問題解決や、たんなるお喋りを、偽りのないケアリングの代わりにもってくるわけにはいかないからである」(p.29)
「ケアするひとは、ケアするとき、ケアするという行いのなかに現前している。物理的には存在しないときでさえ、一定の距離を取った行いは、現前するしるし、つまり、他のひとへの専心没頭[engrossment]、他のひとの幸福への、心づかいや願望をうかがわせる。ケアリングはおおむね、反応的、応答的なものである。ことによると、それは受容的と言ったほうが、もっとうまく特徴づけられるかもしれない。ケアするひとは、ケアされるひとに耳を傾け、かれの物語ることに喜びや苦しみを感じようとして、そのひとに十分専心没頭する。ケアされるひとに対する行いは、なんであれ、専心没頭として現れる関係と、ケアされるひとを温め、慰める態度にはめ込まれる」(p.31)
「ケアリングには、自分自身の個人的な準拠枠を踏み越えて、他のひとの準拠枠に踏み込むことが含まれている。ケアするとき、わたしたちは、他のひとの観点や、そのひとの客観的な要求や、そのひとがわたしたちに期待しているものを考察する。わたしたちの注意、心的な専心没頭は、ケアされるひとについてであって、わたしたち自身についてではない。したがって、行いの理由は、他のひとの欲求や願望と、問題状況の客観的な要素の両方に関係していなければならない」(p.38)
「したがって、ケアするひととして行為することは、具体的な状況の中で、個々のひとに対して、特別な敬意を払って行為することである」(p.39)
「ケアリングの最大の危険性のひとつは、合理的・客観的な様式への、早まった切り替えであろう」(p.41)
「ケアリングには、ケアするひとにとって他のひとと『共に感じること』が含まれている。この関係を『共感(empathy)』と呼ぼうと思う…」(p.46)
「わたしたちが論議している種類の共感は、まず他のひとにはいり込むのではなく、他のひとを受け容れるのである。それだから、わたしは助長しない。受け容れ、通じ合い、助けて働く」(pp.48-49)
「わたしが他のひとを受け容れるときには、そのひとと完全に一体となっている」(pp.49-50)
「わたしは、そうした[ケアするという]判断が下されるときに要求されるはずの一般化可能性を否定している。人間関係の状況はそれぞれ独自である」(p.50)
「わたしがケアするとき、これまで論議してきた仕方で他のひとを受け容れるとき、感情以上のものが存在している。つまり、動機の転換(motivational shift)もまた存在しているのである」(p.51)
「この[ケアにおける]専心没頭は、情動的な感情としては完全に特徴づけられない。ケアリングには特徴的で適切な意識の様態がある」(p.52)
「受容的な様態は、人間の実存の核心である」(p.55)
「受容的な様態は、再帰的であると同時に、反省的でもある」(同上)
「わたしたちは、自分がケアリングの同心円(concentric circles)の中心にいるのを見出せる」(p.72)
「ケアするひともまたケアされるひとに依存している」(p.76)
「自然的なケアリング——自分の存在が維持されるためによりかかってきた自然なケアリング——は、わたしたちが必然的に『よい』ものとして確認する自然な状態である。[中略]
倫理的な自己とは、現実の自己と、ケアしケアされるひととしての理想的な自己の見通しとの間の能動的な関係なのである」(p.78)
「規則に従って徹頭徹尾、そして機械的に行動するのであれば、ケアしているといえない」(p.82)
「ケアされ、応答する人は、十分なケアリングの関係のうちで、自由を認識し、その幅のある支持のもとで、成長するのである」(p.114)
「ケアリングの関係というものは、ケアするひとの専心没頭や、動機の転移を要求し、ケアされるひとの認識や、自発的応答を要求する」(p.123)
「倫理的なケアリングが、自然なケアリングには必要のない努力を要するのを認めるからといって、わたしたちは、倫理的なケアリングが自然なケアリングよりも高次であるとする立場に立つわけではない。[中略]ケアリングにもとづく倫理は、ケアする態度を維持しようと努力し、したがって、自然なケアリングに依存しているのであって、それを越えているのではない。だから、倫理的な行動の源泉は、二つの心情——個人に対して直接に感じる心情と、最初の感情を拒否するよりはむしろ受け容れ、維持するかもしれない最善の自己に対して、またそれによって感じる心情——のうちにある」(pp.125-126)
「倫理的な理想について議論するとき、わたしたちは、『徳』について語っているつもりであるが、『徳』を抽象的なカテゴリーで記述される『もろもろの徳』へと散らすつもりはない。[中略]ケアするひとという個人的な理想によって記述される徳は、関係のうちで組み立てられる。それは、他人にまで達し、他人に応答して成長する」(p.126)
「わたしたち全員には、まったく自然にケアする瞬間というものがある。わたしたちはたんにケアするのであり、どんな倫理的な努力も必要ない。『したい』と『すべきである』とは、そのような場合には区別できない。わたしがすべきであるとわたしや他人が判断しているものを、わたしは行いたいのである」(p.127)
「わたしが示唆しているのは、『わたしはしなければならない』が、直接に、また、わたしの行うことがなんなのかについての考察より前に生じるということである。最初の感情は『わたしはしなければならない』である。それが、『わたしはしたい』から区別されずに生じるとき、わたしはたやすくケアするひととして進む。しかし、しばしばそれはわたしにとって葛藤として生じる。[中略]もしわたしがケアするひととしてふるまおうとすれば、第2の心情が要求される。わたしはケアするひととして自らをケアする。そして、わたしに何かを求めているひとに対して、自然にケアするのではないけれども——少なくともこの瞬間にではないが——わたしは、『わたしはすべきである』という偽りのない道徳的心情を感じるのであり、その感性にわたしは拘束されるのである」(p.129)
「『わたしはしなければならない』は義務を果たす命令ではなく、『わたしはしたい』を伴う命令である。[中略]それは欲求から生まれた『ねばならない』である」(pp.129-130)
「わたしの責務の源泉は、ケアリングという関係にわたしが与える価値である」(p.132)
「これは、わたしたちを相対主義に投げ入れはしない。というのは、理想は、その中核に、普遍的な構成要素、すなわち、ケアリング関係の維持を含んでいるからである」(p.134)
「わたしたちの責務は、関係によって制限され、限界が定められる」(p.134)
「二つの[自分の責務を統制する]基準があるように思われる。すなわち、現存の関係の存在あるいは潜在能力と、関係のうちでの成長のための力動的潜在能力とである。後者は、増大する助け合いとおそらく相互性の潜在能力を含んでいる。最初の基準は、絶対的な責務を確立し、第二の基準は責務を優先順に並べるのに役立つ」(p.135)
「第二の基準がわたしたちに求めるのは、潜在的関係の本性、とりわけ、ケアされるひとの応答する能力を考察することである」(p.136)
「幼児は、誕生間近の胎児でさえ関係できる——最も甘くて最も無意識的な助け合いができる——ので、幼児と出会うひとは、ケアするひととして幼児に接するよう責務を負わされているのである」(p.139)
「わたしたちは、人殺しが誤りであるとは言わない。そのような原理を設定することによって、わたしたちはまたその例外を暗示し、公認された例外に基づいて非常に安易に行動するかもしれない。ケアするひとは、脈絡全体のうちで行為それ自体について考察しようと欲し、また、自分の子どもにそれを考察してほしいのである」(p.146)
「これまで、倫理的な理想を倫理的な行為への手引きとして推奨する際に、わたしが示唆してきたのは、正当化の問題に対する伝統的な取り組みが誤りだということである。倫理学者が『なぜわたしはこのように行動すべきなのか』と問うとき、かれの問いは、動機づけよりは正当化を、またその人格の外側にある論理に向けられがちである。[中略]それらはかなりの知的に重要なことがらであるが、しかし、わたしたちの第一の関心が倫理的行為にあるなら、余計なことである。
道徳的な言明は、事実についての言明が正当化される仕方では正当化できない。それは真理ではないのである。それは、事実や原理からではなく、ケアする態度から導出される。実際、道徳的な言明は、先に述べたように、自然なケアリングに基づく合理的な態度である。道徳的観点や態度から生じるとわたしたちは言えるであろう。このように表現するとき、わたしたちの理解するのは、その道徳的観点を採ることを正当化できないということである。つまり、実のところ、その道徳的観点はどんな正当化の概念よりも先行しているのである」(p.148)
「ケアリングそのものは徳のひとつではない。自分がケアするものでありつづけようとする偽りのない道徳的な関与は、諸々の徳の発達と実行とを引き起こすが、しかし、これらはケアするという状況の脈絡のうちで査定されねばならない。たとえば、忍耐それ自体が徳なのではなくて、特定のケアされるひとのある欠点についての忍耐、あるいは、具体的なケアされるひとを指導するときの忍耐が徳なのである。わたしたちは徳を具象化してはならないし、ケアリングをこうした徳に向けてはならない。そんなことをすれば、わたしたちの倫理は内へと向かい、原理的な倫理学よりもいっそう無益なものになる。というのは、原理的な倫理学は、少なくとも、わたしたちが査定している行為に間接的には接点をもっているからである。徳の充足は、わたしと他人の両者のうちにある」(p.151)
「ケアリングの倫理は不屈の倫理である。それは、もちろん、ケアするときの、ケアするひととケアされるひとの、特別な貢献を確定はするけれども、ケアするときに、自分と他人とを分離しはしない」(p.155)
「究極的な責任あるいは無責任の吟味は、ケアリングの倫理のもとでは、どのようにして倫理的理想が減殺されたのかということにある」(p.159)
「すべては、よくあろうとする意志、すなわち、他人とのケアリング関係を維持しようとする意志次第なのである」(p.161)
「倫理的理想は、二つの心情を源泉として生じてくる。すなわち、ひとつは、人びとが互いに感じ合う自然な共感であり、もうひとつは、大部分のケアリングや思いやりの機会を維持し、回復し、強めようとする切なる望みである」(p.162)
「人間存在に対するわたしたちの関心は、『人格への尊敬』という概念から導き出されているのではない。むしろ、この関心がそうした観点に基礎を与えているのである。厳密に言えば、どんな自然権も存在しない。ただ、自然な傾向性から、また関与を通じて互いに授け合う権利だけが存在するだけなのである」(p.187)
「わたしは、以下のように主張しようと苦心してきた。すなわち、実は、倫理的な行動は、ある程度は、性向的(「自然な」と語る方を好ましい)であり、ある程度は、育みの成果であるような、心理的な深層構造から生まれる、と。わたしたちは、ケアするひととして、倫理的に行動するときに、諸々の道徳原理——たしかに、道徳原理は、思考の指針になるとしても——に従っているのではなく、ケアしケアされるひとの真性の出会いという形で、他のひとと接しているのである。そこには、関与があり、選択がある。関与とは、ケアされるひとや、自分自身の連続的な受け容れに対する関与である。そして、それぞれの選択とは、ケアするひととして存続させたり、向上させたり、その器を小さくしたりしがちである」(p.270)