●社会契約説が「正当化」の理論であるとはどういうことか?
:「なぜ、その統治(国、政府)や社会原理が正しいといえるのか?」(「権利問題」)についてを説明する理論であって、「実際に(歴史上)どうだったか?」(「事実問題」)を説明する理論ではない。
たとえば、
「人間は自由なものとして生まれた。しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。どうしてこの変化が生じたのか?わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか?わたしはこの問題は解きうると信じる」
(ルソー『社会契約論』第1編第1章冒頭、桑原武夫・前川貞次郎訳、岩波文庫、p.15。強調は土屋)
ホッブズ、ロック、ルソーらは、国ないし政府の正当性を、人々の間の自発的な約束(契約)によって説明しようとした。すなわち、国や政府は、人々が自分の生命や資産などを守るために、暴力などを放棄することをお互いに約束したことから作られた、と考えられる場合にのみ正当なものといえるのであって、そうでない場合には正当なものとはいえないのだ、と主張した。
これは、そのような約束がすでに人々の間でなされていると考えない限り、国や政府は正当性を持ちえないのだ、という主張であって、歴史上のどこかの時点で実際にそのような約束が明示的になされたという事実を実証する主張ではない。したがって、そういう歴史的事実を発見することができなくても、彼らの主張は否定されるわけではない。
●統治や社会原理の正当化を行う社会契約説は、個々の規範的判断の正当化は行わないのか?
社会契約説は、国や政府、あるいは特定の社会原理(道徳的・倫理的原理)の正当性を説明するにあたって、「人々はそれぞれ生命や資産を保全する=自分の利益ないし幸福を追い求める」ということを前提にしている。「なぜ国や政府や特定の社会原理は正しいのか?」という問いに対し「それらが各人の生命や資産を保全するための手段であり、各人の利益や幸福を確保するという目的を達成するからだ」と回答する。すなわち、社会契約説は、国や政府や特定の社会原理の正しさを説明する際に、普遍的利己主義に依拠している。さらに社会契約説は、国や法・規則は一人ひとりの利益や幸福を実現するために定められ、定められた以上はそれに従うので、規則利己主義の一形態とみなすこともできよう。
ただし、第一に、自分の利益や幸福を著しく損なう場合には国や法・規則に従う必要はないと考える(革命権を肯定する)ので、徹底した規則利己主義とみなすことはできない。また第二に、人々が社会契約を結び合うのは、自分の利益ないし幸福を最大化させようという積極的(野心的)な理由からではなく、各自の生命(ホッブズ)や「固有権 property」(ロック。資産だけでなく「生命」「健康」「自由」も含む)を保全するという消極的(防衛的)な理由からであるから、利己主義でも「消極的(防衛的)な利己主義」である。
●Thomas Hobbes, Leviathan: or the Matter, Form and Power of A Commonwealth, Ecclesiastical And Civil, 1651.(以下、引用する邦訳は加藤節訳『リヴァイアサン』(上) ちくま学芸文庫、2022年による。原文の大文字は邦訳では原語とともに「 」で示されている。また、原文のイタリック体は邦訳では傍点または「 」で示されているが、以下では下線によって示す)
・自然権、自然状態、自然法
ホッブズは、人は自分自身の生命を維持するために合理的なあらゆることを行う自由(自然権)をもっていると考えた。ホッブズの自然権は、他者を傷つけたりすることまで認める。また、自然状態においては、何かを正しいとか正しくないと判断する基準になる規範が存在しないので、何をしても不正とはいえない。
だが、そのような自然状態は「各人の各人に対する戦争状態」であり、人々は常に他者から襲われる恐怖と死におびえ、安心して暮らせず、農業や工業のような生産活動も行えない。そこで人々は理性(ホッブズにおいては、自分自身の生命を維持するための方法を見出す能力)に従って、「平和を求め、それに従え」「可能なあらゆる方法によって、自分自身を守れ」「平和に必要な範囲で自然権を放棄せよ」「結ばれた契約は履行せよ」「他者の恩恵には報いよ」「自分以外の人々に順応せよ」「過去の罪を悔い改め許容を求める者は許せ」「復讐は過去の悪ではなく将来の善の大きさを考えて行え」「傲慢であるな」「うぬぼれるな」「尊大であるな」「人を裁く際は公平に扱え」「共有物を平等に用いよ」「共有できない物はくじ引きで所有者を決めよ」「平和の仲介者の安全を確保せよ」「調停者の判断には従え」「何人も自分の裁判官にはなれない」「不公平な扱いをしてしまう者は裁判官になれない」「裁判の際には証人を求めよ」というような「自然法」を見出すことになる。
「『自然 NATURE』は、人間を身体と心の諸能力において平等に作った」(第13章、訳書p.202)
「こうした能力の平等から、われわれにおける目的達成への希望の平等が生まれる。したがって、もしも、二人の人間が同一のものを欲求しながら、しかも一人しかそれを享受できないとすれば、彼らは敵となり、主として彼ら自身の保存であり、ときには彼らの単なる快楽でもある彼ら自身の目的に至る途次において、互いに相手を滅ぼすか、屈服させようと努めることになる」(同p.203)
「以上のことから、われわれは、人間の本性の中に、争いの三つの主要な原因を見いだす。第一は競争、第二は相互不信、第三は誇りである」(同p.205)
「これによってあきらかなことは、人々が、彼らすべてを畏怖させる共通の力を持つことなく生活しているときには、彼らは絶えず戦争とよばれる状態にあること、そして、その戦争は、各人の各人に対する戦争であるということである。なぜならば、『戦争 WAR』とは、単に戦闘あるいは闘争行為のうちにあるのではなく、戦闘によって争おうという意志が十分に示されている一連の時間のうちにあるからである」(同pp.205-206)
「[そのような戦争状態においては]継続的な恐怖と暴力的死の危険とがあり、人間の生は、孤独で、貧しく、不快で、残忍で、しかも短い」(同p.206)
「こうした各人の各人に対する戦争ということから、また、そこでは何ごとも不正ではないという帰結が生じる。つまり、そこにおいては、正・不正、正義・不正義という観念は存在の余地がないのである。共通の力がない所には法はなく、法がない所には不正義がないのである。[中略]正義・不正義は、孤独のうちにいる人間にではなく、社会における人間に関係する性質なのである。さらにまた、前述の〔戦争〕状態の帰結として、そこには、所有権も、土地の排他的支配権もなく、私のものとあなたのものとの区別もなく、各人が獲得しうるものだけが、しかも各人がそれを保持しうる限り、彼のものとなるだけである」(同p.209)
「...『自然権 RIGHT OF NATURE』とは、各人が、自分自身の自然、すなわち、自分自身の生命を保全するために自らの力を自らが欲するように行使する自由であり、したがって、自らの判断力と理性とにもとづいて、生命の保全のためにもっとも適当であると考えるいかなることをも行う自由である」(第14章、訳書p.212)
「『自然法 LAW OF NATURE, lex naturalis』とは、理性によって発見される戒律あるいは一般的規則であって、それによって、人は、自分自身の生命にとって破壊的であること、あるいは、生命を保全する手段を取り去るようなことを行うことを禁じられ、また、生命をもっともよく保全しうると自身が考えることを怠ることを禁じられる」(同上)
「...『権利 RIGHT』が、行ったり差し控えたりする自由に存するのに対し、『法 LAW』は、それらのうちのどちらかに決定し、拘束するものである...」(同p.213)
「[戦争状態である自然状態においては]各人は、他人の身体さえも含むあらゆるものに対して権利を持つ」(同上)
「それゆえ、次のことが理性の戒律あるいは一般的な規則となる。それは、『各人は、平和を獲得できるという希望を持つ限り、それに向かって努力すべきであるが、それを獲得できないときには、各人は戦争がもたらすあらゆる助力と利点とを求め、かつ利用してもよいということ』である」(同上)
「人々に平和への努力を命じる上記の基本的自然法から、次の第二の自然法が導かれる。すなわち、それは、『人は、平和と自己防衛とのために彼が必要だと考える限り、他の人々もまたそうである場合には、すべてのものごとへのこの権利を進んで放棄すべきであり、他の人々に対して、彼らが自らに対して持つことを自分が許すであろう自由と同じ大きさの自由を持つことで満足すべきである』というものである」(同p.214)
・権利の放棄と契約
「ある人のあるものに対する権利を放棄するとは、他人がその同じものへの権利から得る利益を妨げる自由を捨てることである」(同p.215)
「権利が失われるのは、それを単に放棄するか、あるいはそれを他人に譲渡するかのいずれかの仕方による。[中略]そして、人が上記のいずれかの仕方で自分の権利を放棄するか譲渡するかした場合、彼は、その権利の譲渡あるいは放棄を受けた人が、その権利に伴う利益を受けるのを妨害しないように『義務づけられ OBLIGED』、あるいは『拘束される BOUND』と言われる」(同上)
「権利の相互的な譲渡は、人々が『契約 CONTRACT』と呼ぶものにほかならない」(同pp.217-218)
「契約者の一方が、契約したもののうちの自分の部分を引き渡し、もう一方の契約者には、その人の部分はある一定の期間のあとに引き渡すのに委せ、その間はその相手を信頼しているという場合、その引き渡した人にとっての契約は『協定 PACT』または『信約 COVENANT』と呼ばれる」(同p.218)
「もしも、双方が今すぐには履行しないものの相互に相手を信頼するという信約が、各人の各人に対する戦争状態であるまったくの自然状態において結ばれた場合、何かもっともな疑いがあれば、その信約は無効である。しかし、もしも、双方の上に、信約の履行を強制するのに十分な権利と実力とを備えた共通の力が設定されている場合には、その信約は無効ではない」(同p.223)
「まったくの自然状態において恐怖から結ばれた信約は、義務を伴う」(同p.226)
「力に対して力によって自らを防衛しないという信約は、常に無効である。なぜならば、まえに示したように、誰であっても、それらを回避することが権利を放棄する唯一の目的である死、傷害、投獄から自分自身を救う権利を譲渡したり、放棄したりすることはできず、したがって、力に対して抵抗しないという約束は、信約においていかなる権利も譲渡せず、また、拘束力を持たないからである。[中略]というのは、人は、その本性上、抵抗しないことによる確実で即座の死というより大きな害悪よりも、むしろ、抵抗することによる死の危険というより小さな害悪を選択するものであるからである」(同p.227)
「『不正義 INJUSTICE』の定義は、信約を履行しないことにほかならない」(同p.233)
「しかし、相互信頼にもとづく信約は、どちらかの側がそれを履行しない恐れがある場合には、まえの章で述べたように、無効である。それゆえ、正義の起源が信約を結んだことにあるとしても、そうした不履行の恐れが除去されるまでは、実際には不正義はありえず、しかも、人々が戦争という自然状態にある間は、その恐れが除去されるということは起こりえない」(同pp.233-234)
「自分自身のもの、すなわち所有権が存在しない所では不正義も存在せず、また、強制権力が樹立されていない所、すなわち政治的共同体が存在しない所ではすべての人間がすべてのものに権利を持つために所有権は存在しないから、政治的共同体が存在しない所では、不正なものは何もない。したがって、正義の本質は有効な信約を遵守することに存するが、その信約の有効性は、人々に信約を守らせるに十分な政治権力の設立ととともに始まり、しかも、そのときに所有権も始まるということになる」(同p.234)
・人格理論——主権者と人々の意思
「『人格 PERSON』とは、『彼の言葉あるいは行為が、彼自身のものと考えられるか、あるいは言葉または行為が帰せられる他人または何かその他のものの言葉または行為を、真にまたは擬制的に代表すると考えられるかする』人のことである」(第16章、訳書p.258)
「それら〔言葉や行為〕が彼自身のものと考えられる場合、彼は自然的人格と呼ばれ、それらが他人の言葉や行為を代表すると考えられる場合、彼は作られたあるいは人為的な人格である」(同上)
「人為的人格のうちのある者の言葉と行為とは、彼らによって代表される人々が自らのものとして所有するものである。したがって、その場合は、その人格は行為者、言葉と行為とが帰属するものは、『本人 AUTHOR』であり、その場合、行為者は本人の権威によって行為する」(同、p.259)
「権威によって理解されるのは、常に、何らかの行為をする権利のことであり、権利によって為されるとは、その権利が属する者の委任または認可によって為されるということになる。
そこから、次のことが生じる。すなわち、行為者が権威によって信約を結んだ場合、彼は、それによって本人を、本人が自分自身で信約を結んだのと同じように拘束し、かつ、その信約のあらゆる帰結に同じく本人を従属させるということにほかならない」(同pp.259-260)
「人間の群衆 a multitude of men は、彼らが一人の人間、あるいは一つの人格によって代表されるときに、一つの人格にされる。したがって、それは、群衆を構成する各人すべての同意がなされることによって行われる。なぜならば、人格を一つにするのは、代表される者の単一性ではなく、代表する者の単一性であるからである」(同p.263)
・政治的共同体(国)の形成
自然状態にあって人々は、いつ他者に襲われるかもしれない戦争状態に留まっている。そこで人々は、自分自身の生命を維持するためのいわば "生存戦略" である自然法に従い、「あらゆるものに、相互の身体に対してさえ」持っている自然権をお互いに放棄するという契約を結びあうと同時に、一人の個人ないし合議体に放棄した自然権を集中的に譲渡し、各自が結んだ契約を維持させるようにする力を持たせる。こうして成立するのが「政治的共同体 (common-wealth, コモン・ウェルス)」であり、自然権の譲渡先である個人ないし合議体(ホッブズは権力の分立は内乱の元になるので、個人である国王が望ましいと考えた)が統治者となる。
このようにホッブズの場合は、自然権を放棄する契約を人々がお互い同士結び、それを破る《抜け駆け》を誰にも許さないよう、統治者に見張ってもらうようにする。その際、契約は人々相互の間にのみ結ばれており、統治者自身は契約の当事者ではないので契約には縛られない。ただし、政治的共同体は「人為的人格」であり、「行為者 actor(役者)」としての統治者は、あくまで「本人 author(著者、作者)」である人々の意思の代行者であるから、統治者と人々の間で意思の齟齬は起こらないとホッブズはいう。また、自分自身の生命を維持することこそ人々が自然権を放棄し政治的共同体を作った目的にほかならないのだから、自分の身体を防衛する権利は常に人々に残されている。
「〈安全は自然法によっては得られない〉というのは、正義、公正、謙虚、慈悲つまり、『われわれが自分にしてもらいたいように、他人に対してせよ』に要約できる諸自然法が、何らかの権力の威嚇なしにそれ自体で遵守されるようになるなどということは、われわれを偏愛、自負心、復讐心、その他類似のものに導くわれわれの自然の情念に反するからである。また、信約も、剣なしには単なる言葉にすぎず、人間に安全をもたらす強さをまったく持たない」(第17章、訳書pp.269-270)
「人々を外国の侵入や相互の侵害から防衛することによって彼らの安全を保証し、彼らが自分自身の勤労と大地の産物とによって自らを養い、自足して生活することを可能とする共通の権力を樹立する唯一の方法は、次の点にある。それは、人々の力と強さを、一人の人間、あるいは、多数意見によって全員の意志を一つの意志に帰することができる人々の一つの合議体に譲渡することにほかならない。これは、次のように言うのと同じことである。つまり、一人の人間または人々の合議体を任命して自分たちの人格を担わせ、また、その人格を担う者が、共通の平和と安全とに関わることがらについて自ら行動し、あるいは人に行動させるあらゆることを各人は自らのものとするとともに、その本人であることを承認し、そして、その場合に、各人は自分たちの個々の意志をその人格を担う者の意志に、自分たちの個々の判断をその者の判断に従わせるということである。これは、同意や和合以上のものであり、同一の人格におけるすべての人間の真の統一であって、この統一は、各人がすべての人間に対して次のように言うかのような各人対各人の信約によって作りだされるものにほかならない。『私は、この人、あるいは人々のこの合議体を権威づけ、それに自己を支配する自らの権利を与えるが、それはあなたも私と同じように、あなたの権利を彼に与え、彼のすべての行為を権威づけるという条件においてである』。このことが行われると、一つの人格に統一された群衆は、『政治的共同体 COMMONWEALTH』、ラテン語では『キウィタス CIVITAS』と呼ばれる。これが『リヴァイアサン LEVIATHAN』、あるいは、むしろもっと敬虔に言えば可死の神の生成であって、われわれはかの不死の神の下、この可死の神にわれわれの平和と防衛とを負うのである」(同pp.274-276)
「それを定義すれば、政治的共同体とは『一つの人格であって、多くの人々から成る群衆が各人相互の信約によって、各人を、その人格の諸行為の本人とした。それは、その人格が、彼らの平和と共同の防衛とに好都合だと考えるところに従ってすべての人々の強さと手段とを用いるという目的のためである』ということになる。
そして、この人格を担う者は『主権者 SOVEREIGN』と呼ばれ、主権者権力を持つと言われ、彼以外の各人は彼の『臣民 SUBJECT』である。
この主権者権力を獲得する道は二つある。一つは、自然の力によるものであり、例えば、ある人が、自分の子どもたちや孫たちを自分の支配に服従させ、もし彼らが服従を拒めば彼らを破滅させることができる場合、あるいは、ある人が、戦争により、生命を助けることを条件にして敵を彼の意志へ服従させる場合がそれに当たる。もう一つの道は、人々が、他の人々から守ってくれることを信頼して、ある人、あるいは人々の合議体に自発的に服従することを彼ら自身の間で同意した場合である。これらのうちの後者は政治的な共同体あるいは設立による政治的共同体と呼ばれ、前者は、獲得による政治的共同体と呼ばれる」(同pp.276-277)
・設立による政治的共同体
「一つの政治的共同体が、設立されたと言われるのは、人々から成る群衆が次のことに合意し、それについて各人と各人とが相互に信約を結ぶ場合である。すなわち、人々すべての人格を代表する権利、換言すれば彼らの代表となる権利が、多数派によって、どの人またはどの人々の合議体に与えられたとしても、それに反対票を投じた者も、賛成票を投じた者と同様に、各人が彼らの間で平和裡に生活し、他の人々に対して保護してもらうために、その人あるいは人々の合議体のすべての行為および判断を、それらがあたかも彼ら自身のものであるかのように権威づけるということにほかならない」(第18章、訳書p.279)
「すべての人の人格を担う権利は、彼らが主権者とした人に対して、彼と彼らとの信約によってではなく彼ら相互の信約によって与えられたのだから、主権者の側がその信約を破棄することはありえず、したがって、彼のいかなる臣民も、主権が剥奪されたということを口実にして彼への臣従から自由になることはできない。主権者とされる者が、臣民たちとまえもっていかなる信約をも結ばないことはあきらかである」(同p.281)
「多数派が同意の声によって主権者を宣言したのだから、それに同意しなかった者も他の者に同意しなければならない。すなわち、彼は、主権者が行うすべての行為を認めることに満足すべきであって、そうしない場合に、他の人々によって破滅させられても、それは不正義ではない。というのは、もし彼が自らの意志によって合議した人々から成る集合体に加わったならば、彼は、それによって多数派が規定することを守る意志を十分に宣告し、そうすることを暗黙裡に信約したのであり、それゆえ、もし彼がそれを守ることを拒否したり、あるいは多数派が定める法令に抗議したりするならば、彼は自らの信約に違反することを、したがって不正義を行うことになる」(同p.283)
「すべての臣民は、この〔主権者の〕設立においては設立された主権者のすべての行為と判断との本人なのだから、そこから、主権者が何をしようとも、それが臣民の誰かに対する権利侵害になることはありえず、また、彼は、臣民の誰によっても不正義という非難を受けるべきではないということが生じる。[中略]この政治的共同体の設立においては、すべての諸個人は主権者のあらゆる行為の本人であり、したがって、主権者によって権利侵害を受けたと不平を言う者は、彼自身が本人であることに対して不平を言うということになる」(同p.284)
「すぐまえで述べたことの帰結として、誰であれ主権者権力を持つ者が、不正義なしに、殺されるとか、その他の方法とかで、臣民によって処罰されるということはありえない」(同上)
「各人が、他のいかなる同胞臣民によっても妨げられることなく享受しうる財貨とは何であり、そのために行いうる行為とは何であるかを知ることができる諸規則を制定する全権力は、主権に属する。そして、人々が所有権と呼ぶものがこれなのである」(同pp.286-287)
「政治的共同体の設立以前には、各人は、自分自身の保全に必要だと考えるあらゆることがらに対する権利と、例えば、自らの保全のために誰であっても屈服させ、傷つけ、殺すといったあらゆることを行う権利とを持っていたのであり、これこそが、いかなる政治的共同体においても遂行される処罰の権利の基礎なのである。すなわち、臣民たちは、主権者に対してその権利を与えたのではなく、自らの権利を放棄することによって、主権者がすべての臣民の保全のために適当であると考えるところに従って自らの権利を行使できるように主権者を強化したのである。それゆえ、その権利は、主権者に与えられたものではなく、彼に、そして彼だけに、(自然法によって定められた制約を除いて)まったくの自然状態、各人と隣人たちとの間の戦争状態においてと同じように完全なものとして残されたものにほかならないのである」(第28章、訳書p.482)
・獲得による政治的共同体
「獲得による『政治的共同体 COMMONWEALTH』とは、主権者権力が実力によって獲得される政治的共同体である。そして、実力によって獲得されるというのは、人々が、個別的に、あるいは集合した多くの者の多数意見によって、死や監禁への恐怖から、彼らの生命と自由とを手中に握る人または合議体のすべての行為を権威づける場合にほかならない」(第20章、訳書p.317)
「〔設立による政治的共同体の場合には〕人々が自分たちの主権者を選ぶのは相互の恐怖によってであって、彼らが設立する人に対する恐怖によってではないが、この〔獲得による政治的共同体の〕場合には、彼らは自分たちが恐れる人に臣従する」(同上)
「しかし、主権の諸権利とそれらがもたらす諸帰結とは両者において同一である。したがって、彼の権力は次のようなものとなる。すなわち、彼の同意がない限り、他者に譲渡されえないし、彼はそれを没収されえないこと、彼が、臣民たちによって権利侵害の非難を受けることはありえないし、彼が、臣民たちによって処罰されることもありえないこと[中略]にほかならない」(同pp.318-319)
「支配は二つの方法、すなわち、生殖と征服とによって獲得される。生殖による支配の権利とは、親が彼の子どもたちに対して持つもので、『父権的 PATERNAL』と呼ばれる。そして、これは、親が子どもを儲けたために親が自分の子どもに対する支配権を持つかのように生殖から引きだされるのではなく、明示的な、あるいは他の十分な証拠にもとづいて宣言された子どもの同意から引きだされる」(同p.319)
「征服あるいは戦争の勝利によって獲得される支配権は[中略]『専制的 DESPOTICAL』と呼ぶものであって、下僕に対する主人の支配権である。そして、この支配権は、敗北者が、直面している死の一撃を避けるために、明示的な言葉か、それ以外の十分に意志を示す印かによって、次のように信約するときに勝利者によって獲得される。すなわち、それは、敗北者の生命と身体の自由とが許される限り、勝利者が彼らを好むままに使ってかまわないというものにほかならない。そして、そうした信約が結ばれてからは、敗北者は『下僕 SERVANT』となるのであって、それ以前はそうではない。[中略]
したがって、敗北者を支配する権利を与えるのは勝利ではなく、その敗北者自身の信約だということになる」(同pp.322-323)
「要するに、父権的統治権と専制的統治権との諸権利も、それからの諸帰結も、設立による主権者のそれとまったく同じであり、その理由も、前章で記した理由とまったく変わらないということなのである」(同p.324)
・臣民の自衛権
「私は以前に、第14章で、人が自分自身の身体を防衛しないという信約は無効であることを示した。したがって、
もし主権者が、ある人に対して、たとえその人が有罪とされることが正当な場合であっても、自分自身を殺したり、傷つけたり、不具にしたりすること、あるいは、その人を攻撃する者に抵抗しないこと、あるいは、それなしには生きることができない食物、空気、薬、その他のものを用いないことを命じたとしても、その人はそれに従わない自由を持つ」(第21章、訳書p.344)
「誰であっても、言葉自体によって、自分あるいは他の人を殺すように拘束されることはない。[中略]われわれの服従拒否が、主権が制定された目的を妨げる場合には、われわれに服従を拒否する自由はなく、そうでない場合は拒否する自由があるということになる」(同p.345)
「他人を、その人が有罪であるか無実であるかにかかわらず防衛するために政治的共同体の剣に抵抗する自由は、誰も持たない。[中略]しかし、非常に多くの人々が一緒になってすでに主権者権力に対して不正に抵抗をしたり、大きな罪を犯したりしており、しかも彼らのおのおのが死を予期している場合、彼らは、ともに結合して、相互に援助し防衛しあう自由を持たないであろうか。確かに、彼らはその自由を持っている。なぜならば、彼らはただ彼らの生命を防衛しているだけであり、それは、罪のある者も、無実の者と同様に行ってよいことであるからである」(同p.347)
「[戦争で捕虜になったりして、外国に対し臣従した場合]もし人が、監獄につながれたり、枷を嵌められたり、信用にもとづいて身体の自由が与えられるということがなかったりした場合には、彼は、信約によって臣従するように拘束されるものとは理解されえず、したがって、彼は、いかなる手段を用いて逃亡してもよいことになる」(同p.350)
「もし、君主が、彼自身とその後継者たちとに関して主権を放棄するならば、彼の臣民たちは、自然の絶対的自由に回帰する」(同上)
「もしもある人が、切迫した死の恐怖によって法に反する犯罪事実を行うように強いられたとしても、彼は全面的に免罪される。なぜならば、いかなる法も、人に自己保存を放棄するように義務づけることはできないからである」(第27章、訳書p.468)
「政治的共同体を作るに当たって、各人は、他人を防衛する権利は放棄したものの、自分自身を防衛する権利を放棄したわけではない」(第28章、訳書p.481)
●ジョン・ロック『統治二論』(John Locke, Two Treatises of Gorvernment, 1690)後編の概略
ロックはホッブズの理論的枠組みを継承しつつ、独自の変更を加えた。ロックにおいて自然状態は、神の意思である自然法が支配する平和な状態をさす。そこでは「すべての人間は平等で独立しているのだから、何人も他人の生命、健康、自由、あるいは所有物を侵害すべきではない」(『統治二論』後編第2章第6節、岩波文庫p.298)ということが、ただちに理性(ロックにおいては、神の自らの計画を達成させるために人間に与えた知性的能力)によって知られている。
人々がおおむね平等である間は、敵意による侵害が行われ戦争状態に陥っても、自然法が各人の手によって執行される(自然法に反し他者の生命や健康や資産を害する者は各人によって処罰される)ので、やがて平和な状態に復帰する。
だが、自然状態において平和は、相互処罰や報復によってかろうじて保たれているだけだ。自分の身体の労働によって得られる所有物については、腐敗させたり荒廃させたりすることなく利用し尽くせる量が限度と定められる。しかし、腐敗することのない貨幣によって所有が増大し、人々の間の不平等が大きくなると、力のある者の暴力を相互処罰だけで抑えることは難しくなり、戦争状態から平和な状態に復帰しにくくなる。そこで人々は、力のある者をも抑えることができる公共的な権力を、社会契約によって作る。
その際にロックは、ホッブズのように人々の自然権のほとんどを一気に統治者に集中させるのではなく、まず、人々からなる共同体を作り、そこに「立法権力」(立法府、議会)を立てて法(憲法、基本法)を作る。つまり、統治者をいきなり立てるのではなく、まず共同体を作り、共同体が従う法を定める。次に、この法に則り、共同体から「執行権力」(今日の言葉では「行政権」に相当)を、統治者(ロック自身は王を想定)に信託する。したがって、社会状態における最高の権力は立法府にあるのであり、統治者にあるわけではない。ただ、常設でない立法府の招集権は統治者がもつなど、立法府と統治者の間には、権力の一定の相互抑制関係もみられる。
このように、ロックの社会契約説の枠組みでは、人々はまず相互の社会契約により共同体を形成し、共同体は法の作成を「立法権力」(立法府)に信託し、さらに「執行権力」である統治者に法の執行が信託される。立法府や統治者が共同体の信託に反した場合には、立法府や統治者と共同体との関係は自然状態に戻ってしまうから、共同体には、信託に反した立法府や統治者を、自然法に則り排除ないし変更する権利(抵抗権)がある。この点が、人々の意思とそれを「代理」する主権者の意思は齟齬を起こさないはずで、もし主権者が人々の生命を脅した場合も自衛や逃亡しかできないとしたホッブズと異なる。
●ジョン・ロールズによる、2つの社会原理の正当化の概要
(John Rawls, A Theory of Justice, The Belknap Press of Harvard University Press, 1971, revised edition, 1999. 1999年版の訳は川本隆史・福間聡・神島裕子訳『正義論』改訂版、紀伊國屋書店)
現代の社会契約説は、ゲーム理論や経済学の成果を取り入れて、より洗練された形態をとるようになっている。たとえば、ジョン・ロールズは1971年に出版された『正義の理論』の中で、人々が社会を形成する原理を選択する状況として、社会階層やジェンダー、人種などによる不平等が反映されないように、自分がこれから形成される社会の中でどんな地位につくか一切わからない(「無知のベール」のかかった)仮想的状態を設定する。その状態で選択されるに違いない社会原理を、ロールズは以下のように表現した(A Theory of Justice, The Belknap Press of Harvard University Press, 1971, p.60)。
1.各人は、他者の同じような自由と両立する限りでの最も広範囲の基本的な自由に対して、平等な権利をもつべきである。
2.社会的および経済的不平等は、次の二つの条件をともに満たさなければならない。
(a) あらゆる人々の利益になると合理的に期待できること。
(b) すべての人に開かれた職務や地位に付随したものであること。
1の原理(第一原理)は、他者の自由を侵害しない限り、すべての人は平等に、基本的な自由をもつということだ。また、2の原理(第二原理)は、社会的経済的な不平等が認めうるのは、それが (b) 公正な機会均等を達成するための手段となり、かつ (a) 全ての人、とりわけ具体的には社会の中で最も不遇な人々の利益になる場合だけである、ということを述べている。(b)の条件は「機会均等原理」、(a)の条件は「格差原理」と呼ばれる。
ロールズによると、第一原理は第二原理よりも、そして、第二原理の中では(b)の機会均等原理が(a)の格差原理よりも、優先される(先に達成が図られる)という「辞書的順序」がある。また、2の(a)の「格差原理」は、1960年代から1970年代にかけて米国で盛り上がりを見せた公民権運動の成果として、アフリカ系米国人に大学の入学枠を確保するなどの「アファーマティヴ・アクション(積極的是正措置)」に理論的裏付けを与えたものと解釈されている。
*のちにロールズはこれらの社会原理の「最終的な」「完全な言明」を以下のように記述している(A Theory of Justice, Revised Edition, The Belknap Press of Harvard University Press, 1999, p.266[川本隆史ほか訳『正義論・改訂版』紀伊國屋書店、2010年、pp.402。ただし訳文は邦訳を改変した])。
第一原理
各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な体系全体に対する対等な権利をもつべきである。ただし最も広範な体系全体といっても、すべての人の自由の同様[に広範]な体系全体と、両立可能なものでなければならない。
第二原理
社会的・経済的不平等は、次の二つの条件をともに満たさなければならない。
(a) そうした不平等が、正義にかなった貯蓄原理を排することなく、最も不遇な人々の最大の利益に資すること。
(b) 公正な機会均等の諸条件のもとで、すべての人に開かれている職務と地位に付随する[ものだけに不平等がとどまる]こと。