●Alasdair MacIntyre, After Virtue: A Study in Moral Theory, University of Notre Dame Press, 1981 (2nd edition, 1984).
(篠崎榮訳『美徳なき時代』みすず書房、1993年[第2版の訳]。以下、引用は邦訳による。強調は邦訳では傍点。{ }は土屋による補足)
「徳とは、獲得された人間の性質であり、その所有と行使によって、私たちは実践に内的な諸善{行為自体がもつさまざまな善さ}を達成することができるようになる。またその欠如によって、私たちはそうした諸善の達成から効果的に妨げられる{達成できなくなる}のである」(p.234)
「あらゆる実践{行為}は、それに参加する人々の間のある種の関係を要求する。ところで、諸徳が善だというとき、私たちはそれに言及することによって、そうした他の参加者と私たちとの関係を、好むと好まざるとにかかわらず規定しているのであり、彼らとの間で私たちは、諸実践{さまざまな行為}を形づくっている目的と基準とを共有しているのである」(p.235)
●プラトン『国家』(引用は藤澤令夫訳、岩波文庫による)
「それぞれのものの〈はたらき〉[エルゴン]とは、『ただそれだけが果しうるような、あるいは、他の何よりもそれが最も善く果しうるような仕事』ではあるまいか」(第1巻第24章、353A)
「それぞれのものには、それが本来果すべき〈はたらき〉が定まっているのに対応して、〈徳〉(優秀性)[アレテー]というものもあるとは思わないかね?」(同、353B)
「それぞれの〈はたらき〉をもっているものは、自分に固有の〈徳〉(優秀性)によってこそ、みずからの〈はたらき〉を立派に果し、逆に〈悪徳〉(劣悪性)[カキアー]によって拙劣に果すのではないか」(同、353C)
「徳とは魂の健康にあたるものであり、美しさであり、壮健さであるということになり、悪徳とはその病気であり、醜さであり、虚弱さであるということになるようだ」(第4巻第18章、444E)
●アリストテレス『ニコマコス倫理学』(引用は渡辺邦夫・立花幸司訳、光文社古典新訳文庫による。強調は訳文では傍点。[ ]は訳者による補足、{ }は土屋による補足)
・最高善=究極的な目的=幸福=人間の徳(アレテー)に基づく魂の活動=魂の「まさに分別(ロゴス)をもち思考する部分」(なかでも「知恵[ソピアー、ソフィア]」) の活動
「どのような技術も研究も、そして同様にしてどのような行為も選択も、なんらかの善を目指しているように思われる。[中略]
しかし、これらの目的のあいだに或る種の相違があることは明らかである。実際、活動[そのもの]を目的とするものもあれば、活動とは別になんらかの成果を目的とするものもある。そして行為とは別の何かが目的であるような場合には、活動よりもその成果のほうが善いのが自然である」(第1巻第1章、1094a)
「そこで、われわれによって為される事柄のなかに、われわれがそれ自身のゆえに望み、ほかの事柄をこの事柄のゆえに望むような、なんらかの目的があるとしてみよう。つまり、われわれはあらゆる事柄を何かそれとは別の事柄のゆえに選ぶのではないとしてみよう([中略])。その場合、明らかにそうした目的こそが『善』であり、『最高善』であることになる」(第1巻第2章、1094a20)
「その[為しうるすべてのよいもののうちで最上位のものの]名称の点では大多数の人の意見はおおよそ一致している。つまり、一般大衆も立派な人々もそれを『幸福』と呼び、『よい人生を送ること』や『立派にやっていくこと』を『幸福であること』と同じものと考えているからである」(第1巻第4章、1095a)
「もっとも主要な生活の形態は三つあり、[中略]享楽的な生活と、『政治的な生活』と、第三として『観想的な生活』である。[中略]立派で行動力のある人々は、名誉が善や幸福だと理解しているように思われる。というのも、政治的な生活の目的は、おおよそこの名誉だからである。[中略]かれらは、自分のことをよく知る人々のあいだで、思慮深い人々から、自分の徳(アレテー)[卓越性]を理由にして名誉が与えられることを欲しているのである。それゆえ、少なくともかれらとしては、徳(アレテー)のほうが名誉よりもよいもののはずである」(第1巻第5章、1095b)
「われわれは、『それ自体として追求される事柄』を『ほかのもののために追求される事柄』よりも『いっそう完結したもの』と言い、また、『ほかのもののために選ばれることがけっしてない事柄』を『限定ぬきに完結したもの』と言っている。そして、とりわけ幸福が、そうしたものであると思われている。というのも、われわれが幸福を選ぶのは、つねに幸福それ自体のためであって、けっしてほかの何かのためではないからである。これに対して、名誉や快楽や知性やあらゆる徳(アレテー)を、われわれはそれ自体のためにも選ぶが(というのも、そこから何も生まれなくても、これらそれぞれのものを選ぶだろうから)、これらを通じて幸福になるだろうと考えて、幸福のためにも選ぶからである。しかし、だれも、幸福をこれらのもののために選ばないのであり、およそ何かほかのもののために幸福を選ぶこともない」(第1巻第7章、1097a-1097b)
「したがって、幸福は、完結した何かであり自足的なものであって、もろもろの行為の目的であるということは、明らかである」(同上、1097b20)
「さらにここでは、より明確に幸福とは何であるかを語ることが求められている。おそらく、人間の『はたらき』が把握されるときに、明確に語られることになるだろう」(同上、1097b)
「探究されているのは[人間のはたらきとして]固有なものだが、『生きること』は、明らかに植物にも共通している。それゆえ、『栄養摂取の生』と『成長の生』は除外しなければならない。そのつぎの候補は『感覚にかかわる何らかの生』であろうが、これもまた明らかに馬や牛など、あらゆる動物と共通している。したがって残っている候補は、『分別(ロゴス)がある部分による行為にかかわるなんらかの生』である。ただし、『分別(ロゴス)がある部分』については、『分別(ロゴス)に従う部分』と『まさに分別(ロゴス)をもち思考する部分』がある。しかし、『行為にかかわるなんらかの生』もまた、[「活動する」と、単に「性向のもとにある」の]二つの仕方で語られるので、活動の意味での生を想定しなければならない。というのも、それのほうがより本来的な意味で語られているように思われるからである」(1097b-1098a)
「人間のはたらきは、分別(ロゴス)に基づく、もしくは分別(ロゴス)ぬきにはないような、魂の活動であるとしてみよう。[中略]
われわれは人間のはたらきを或る種の生と定め、それを、分別(ロゴス)を伴った魂の活動および行為と定めているので、これらを[みな]美しく立派に為し遂げることはすぐれた人に属し、それぞれが何かを立派に為し遂げることはその固有の卓越性(アレテー、徳)に基づいてのことであるとしてみよう。——もし以上のようだとすると、人間にとっての善とは、
徳(アレテー)に基づく魂の活動
となる。そしてもし徳(アレテー)が二つ以上だとしたら、
もっとも善く、かつもっとも完全な徳(アレテー)に基づく魂の活動
が人間にとっての善となる。ただしさらに、完全な生{人生全体}においてという条件も付け加えなければならない」(同上、1098a)
「ところで、一般に善さは三通りに分けて語られる。つまり、外的なものにかんして、また、魂および身体にかんしても、それぞれ善さが語られるのだが、われわれは一般に、魂にかんするものを『もっとも本来的で、最高によいもの』と語っている。そして、魂にかんするものとわれわれが一般にみなしているのは、さまざまな行為と魂にかかわる活動である」(第1巻第8章、1098b10)
・徳(アレテー、卓越性)の種類:知的な徳と、人柄の徳(性格の徳、倫理的な徳)
「さて、幸福が『完全な徳(アレテー)に基づく魂のなんらかの活動』である以上、われわれは徳(アレテー)について考察しなければならない。というのも、徳(アレテー)の考察を通じて、きっと幸福についてもよりよく理解できるようになるはずだからである」(第1巻第13章、1102a)
「ただし、『徳(アレテー、卓越性)』といっても人間の徳(アレテー)がわれわれの考察しなければならない主題であるということは、明らかである。なぜなら、われわれがここまで探究してきたのは、まさに人間の善と人間の幸福だからである。また、『人間の』徳(アレテー)といま言うとき、われわれは身体の卓越性(アレテー)のことを言いたいわけではなく、魂の徳(アレテー)のことを言っている。そしてわれわれは幸福をも、魂の活動であるというように語っている」(同上、1102a)
「魂のなかには分別を欠く部分と、分別(ロゴス)がある部分とがある」(同上、1102a)
「その[分別を欠く部分]のひとつは、植物と共通する部分である。つまり、栄養摂取と成長の原因になるような部分である。というのも人は、魂のそのような能力を胚のなかであれ、完成した生物のなかであれ、どこでも同一の能力として、栄養を摂取するあらゆる生物のなかに認めることができるからである。[中略]そしてこの能力の点での卓越性(アレテー)は、なんらかの共通性がみられる卓越性(アレテー)なのであって、人間ならではの卓越性(アレテー、徳)というわけではないように思われる」(同上、1102a-1102b)
「これに対し、これとは別の魂の自然のあり方があり、これもまた『分別を欠いている』ように思える。ただし、それにもかかわらずこの別の部分のほうは、或る意味で分別(ロゴス)に与るようなものである。というのも、抑制ある人と抑制のない人の場合、かれらの分別(ロゴス)と、彼らの魂の分別(ロゴス)のある部分とをわれわれは賞讃するからである。なぜなら、分別(ロゴス)こそ正しく、また最善の事柄へと向かうように人を促してくれるものだからである。しかし、明らかにこの両方の類型の人々のなかに、分別(ロゴス)に反するような本性をもつ別の何かも存在する。そしてこの別の何かが分別(ロゴス)と戦い、分別(ロゴス)に逆らっている」(同上、1102b)
「したがって、『分別を欠く部分』にもまた、二通りの意味があるように思われる。というのも、植物にもあるそのような部分は分別(ロゴス)にいっさい関係しないが、欲望や欲求一般の意味でのそのような部分であれば、分別(ロゴス)に『聴き従い』分別(ロゴス)に『従順である』かぎり、なんらかの仕方で分別(ロゴス)に与るからである」(同上)
「以上のような意味をも『分別(ロゴス)がある』と言うべきであるなら、『分別(ロゴス)があること』も二通りの意味を持つ事柄になるだろう。すなわち、一方に本来の、自らのうちに分別(ロゴス)があるという意味があり、他方に、父親に聴き従うというようにして分別(ロゴス)があるという意味があるということになるだろう。
そして、徳(アレテー)もまたここで登場した区別に応じて二分される。なぜなら、さまざまな徳(アレテー)があるなか、われわれはさまざまな知的な徳(アレテー)とさまざまな人柄の徳(アレテー)を[区別して]語っているからである。つまり、われわれは知恵や物わかりや思慮深さが知的な徳(アレテー)であると言い、気前良さや節制が人柄の徳(アレテー)であると言っているのである。というのも、人々の人柄について語る場合、われわれは『知恵がある』とか『物がわかった』とは言わず、『温和である』とか『節制の人だ』と言うからである」(同上、1103a)
・自らのうちに分別(ロゴス)がある部分(理知的部分)のアレテー:知的なアレテー
・必然的な事柄を扱う部分(学問的に知る部分)のアレテー:知恵
・必然的ではない事柄(行為)を扱う部分(推理して知る部分)のアレテー:思慮深さ
・ロゴスを欠く部分(欲求的・感情的部分、動物的部分)のうちロゴスに聴き従う部分のアレテー:人柄のアレテー(性格のアレテー、倫理的なアレテー)
[ロゴスとは無縁の部分(栄養摂取や生殖を行う部分、植物的部分)はアレテーをもたない]
・人柄の徳はいかにして身につくか
「したがって徳(アレテー)は二種類あり、知的な徳(アレテー)と人柄の徳(エーティケー・アレテー)がある。そして知的な徳(アレテー)はその大部分が教示によって生まれて、教示によって伸びていく。それゆえにそれは、経験と時間を要する。他方、人柄の徳(アレテー)は[行為の]習慣(エトス)から生まれるものである。それでこの『エーティケー(人柄の)』という語も、『エトス(習慣)』から少し変化してできたものである。このことから、人柄の徳(アレテー)のどれひとつとして、生まれつき自然にわれわれのうちに生じているというわけではないこともまた、明らかである。というのも、自然の力によってあるものの何ひとつとして、現状と違うように習慣付けられることはありえないからである」(第2巻第1章、1103a)
「もろもろの徳(アレテー)は、生まれつき自然にわれわれに内在しているのでもなければ、自然に反してわれわれに内在化するのでもない。われわれは徳(アレテー)を受け入れるように自然に生まれついているのではあるが、しかしわれわれが現実に完全な者となるのは、習慣を通じてのことなのである」(同上)
「もろもろの徳(アレテー)をわれわれが得るのは、予め活動したからである。これは、ほかの技術の場合と同様である。学んで為すべき事柄であれば、われわれはその事柄を実際に為しながら学ぶのである。たとえば人は、家を[実際に]建てることにより建築家になり、キタラ{ハープの小さいもののような古代ギリシアの弦楽器}を[実際に]奏しながらキタラ奏者になる。これと同様に人は、正しいことを[実際に]為しながら節制の人となり、勇気あることを[実際に]為しながら勇気ある人となる。——国家において起こっていることもまた、この点についての証拠となる。すなわち、立法者は、市民がすぐれたことを為すように習慣づけるものである」(同上、1103a-1103b)
「そこで一言でまとめるなら、性向[へクシス*]は、その性向と同じような活動から生じるのである。それゆえにわれわれは、[何よりもまず]活動を一定の[すぐれた]性質のものにしておかなければならない。というのも、活動の性質の違いに応じてそれに付随する性向も違ってくるからである」(同上、1103b)
*「デュナミス(能力、可能態)」のように単なる可能性ではなく、一定の活動(エネルゲイア)を生むように方向付けられた、ものや人の傾向性の状態のこと
「知識(エピステーメー)や能力(デュナミス)と、性向の状態とで、事情が同じというわけではないからである。なぜなら、能力や知識は同じひとつのものでありながら相反する事柄にかかわると思われるが、互いに反対の事柄に、反対対立の一方の性向の状態がかかわるわけではないからである。たとえば、人々は健康[という状態]からそれと反対の[不健康な]事柄を為すわけではなく、健康な事柄のみを為すのである」(第5巻第1章、1129a)
・徳(アレテー)は性向(へクシス)の一つ
「魂のなかにあらわれるものは感情(パトス)と能力(デュナミス)と性向(へクシス)の三つであるので、徳(アレテー)はこれらのどれかであることになる。ここでわたしは『感情(パトス)』ということで、欲望や怒りや恐れや自信や妬みや喜びや愛や憎しみやあこがれや羨望や憐れみ、それから一般に快楽もしくは苦痛が伴うような気持のあり方のことを言っている。他方、『能力(デュナミス)』ということでわたしは、われわれがそれによりこれらの感情をもつことができると語られる[身体能力的な]力のことを言う。たとえば、それにより怒りを覚えることができる能力、それにより苦しみを感じることができる能力、それにより憐れむことができる能力がこれにあたる。また、わたしの言い方で『性向(へクシス)』とは、『その性向によってわれわれが、それら諸感情に対して善いあり方をしているか、さもなければ悪いあり方をしている、そのような性向』を言いあらわす。たとえば、もし怒りの覚え方が『激烈といえるくらい強い』ものか『締まりのないほど弱い』ものであるならば、われわれは悪いあり方をしているのだが、『ほどよく中間的に』怒りを覚えるなら善いあり方をしているのである。ほかの感情についても、これと同様のことが言える。
そこで、徳(アレテー)と悪徳は、感情ではない。なぜなら、われわれが『すぐれている』とか『劣っている』と言われるのは、われわれの感情を根拠としてのことではなく、まさにわれわれの徳(アレテー)と悪徳を根拠にしてのことだからである。[中略]
この理由から、徳(アレテー)と悪徳は能力でもない。なぜなら、限定条件ぬきにただ感情を感じることができるからといって、そのために『善い』とも『悪い』とも語られることはないし、賞讃も非難もされないからである。さらに、われわれは生まれつき能力ある者だが、自然本来の生まれによっては善くも悪くもならない。[中略]
ゆえに、徳(アレテー)が感情でも能力でもないとすれば、残っているのはそれが性向であるということである」(第2巻第5章、1105b-1106a)
・倫理的探究の性格
「いまわれわれがおこなっている探究は、ほかのさまざまな探究のように理論{テオーリア。観照、観想、観察}研究のためではないので(というのも、われわれがいま考察しているのは『徳(アレテー)とは何か』を知るためではなく、われわれ自身が善き人になるためだからである。事実、もし知るための探究であったなら、それから得られる利益など、なにもないであろう)、われわれはもろもろの行為にかかわる研究をして、それらの行為をどのように遂行すべきか、研究しなければならない。なぜなら、すでに語ったように、性向が一定の性質になることを決定するのもまた、行為だからである」(第2巻第2章、1103b。{ }内は土屋による補足)
「もろもろの行為にかかわる議論はそのおおよその輪郭において語られるべきであり、これを厳密に語ろうとすべきでない」(同上、 1104a)
「『健康』にかかわる事柄がそうであるのと同じく、行為において問題となる事柄も、もろもろの『有益なもの』も、[場面ごとのゆらぎにより]まったく安定していない。そして、一般的説明がすでにそのように不安定な性質なのだから、個別事例にかんする説明は、さらにいっそう厳密さを欠くのである。というのも、個別事例は技術の管轄下に収まるものでもなければ、教訓マニュアルの想定内のものでもないのであり、行為者はかれが直面している現在の機会における事柄を、自分自身で検討しなければならないからである。これは、『医術』や『操縦術』の場合と同じことである」(同上)
・人柄の徳は中間性(中庸)によって保たれる
「はじめに、身体の強さや健康さについてわれわれが現に観察できているのと同じく、われわれのいまの主題となる[人柄の諸徳(アレテー)という]事柄もまた、不足と超過によって破壊されてしまうような自然的性質を帯びているという点を、理解しておかなければならない」(第2巻第2章、1104a)
「節制の場合にも勇気の場合にも、またそのほかのもろもろの徳(アレテー)の場合にも、事情はこれ[身体の強さや健康]と同様なのである。なぜなら、あらゆることを回避し、恐れて、どんなことにも踏みとどまらないような人は『臆病』になるのであり、どんなこともいっさい恐れず、たとえどんなことであってもそれに立ち向かっていく人は『向こう見ず』になるからである。また同じように、いかなる快楽をも味わい、どのような快楽をも慎まない人は『放埒』になるが、その一方で、野暮ったい人々がそうするように、いかなる快楽も避けて通る人は、或る種の『無感覚』のようなものになる。——それゆえ、以上のように、節制と勇気は超過と不足によって破壊され、中間性[メソテース。中庸]によって維持されるのである」(同上。[ ]内は土屋による補足)
「人柄の徳(アレテー)とは[そもそも]、快楽と苦痛にかかわりをもつ」(第2巻第3章、1104b)
「徳(アレテー)とは快楽と苦痛にかかわりながら最善の事柄を為すような性向であり、悪徳とはこれと反対のものである」(同上、1104b)
「いかなる卓越性(アレテー)も、卓越性(アレテー)をもつものをよい状態にし、そのものが自己のはたらきをよく発揮できるようにする、と語るべきである。[中略]人間の卓越性(アレテー。徳)もまた、人間を善き者とし、自分自身のはたらきをすぐれた仕方で発揮させる、そのような状態としての性向ということになる。[中略]
さて、連続しているが分けられるようなすべてのものからも、『より多いもの』と『より少ないもの』と『等しいもの』を取り出してくることができる。そして取り出されたこれらのものは、事柄それ自体においてそうであるか、われわれにとってそうであるかである。そして、『等しいもの』とは、超過と不足の中間である。わたしが『事柄の中間』というのは、『両方の端いずれからも等しく離れているもの』のことである。そしてそれは、いかなる人にとってもまさに同じひとつのものである。他方、『われわれにとっての中間』とは、『超過でも不足でもないもの』のことである。そしてこれはひとつではないし、全員にとって同一というわけでもない。[中略]専門の知識をもつ者はだれでも『超過』と『不足』の両方を避け、『中間』を追求してそれを選ぶわけなのだが、ここでその『中間』というべきなのは、事柄の中間ではなく、『われわれにとっての中間』のほうなのである。
それゆえ、このようにいかなる知識もみな、『中間』に着目しておいて、その中間のところへと[その知識の]課題となる事柄を導いてゆくことにより、それらのはたらきをすぐれた仕方で完成へともたらすのである」(第2巻第6章、1106a-1106b)
「したがって、[人柄の]徳(アレテー)とは、
選択を生む性向であり、それはわれわれにとっての中間性を示す性向である。
そして、ここでの『中間性』とは、
[その人の]分別(ロゴス)によって中間性と定まり、かつ思慮深い人ならば中間性と定めるような定め方において定まるものである。
そして、中間性は二つの悪徳の中間、つまり超過による悪徳と不足による悪徳の中間である。さらに、感情と行為において、一部はしかるべき程度を超過し、一部はそれに不足するが、徳(アレテー)は、そのしかるべき中間を発見して選ぶという意味においても『中間のもの』である」(同上、1106b-1107a)
「[人柄にかかわる]性向は三つあり、うち二つは悪徳である。そのうちの一方は超過によるもので、他方は不足によるものである。これに対しひとつの中間性があり、これが徳(アレテー)である。——これら三つはいずれもがいずれに対しても、なんらかの対立関係に立っている。なぜなら、両極は中間のものとも、お互い同士とも反対であり、他方、中間の性向のほうも両極の性向と、反対であるからである」(第2巻第8章、1108b)
「三つの性向はこのような対立関係にあるので、最大の対立は、両極が中間のものとのあいだでもつ対立というより、両極同士の対立関係である」(同上)
・人柄の徳(アレテー)の一覧
・恐れと自信に関して:勇気(自信の超過は向こう見ず、恐れの超過と自信の不足は臆病)
・快楽と苦痛に関して:節制(超過は放埒、快楽の不足は無感覚)
・財産の授受に関して:気前よさ(超過は浪費、不足はさもしさ)
・名誉と不名誉に関して:志の高さ(超過は虚栄、不足は卑屈)
・怒りに関して:温和(超過は苛立ちやすさ、不足はふぬけ性)
・自分に関する真実に関して:正直さ(超過への見せかけは大言壮語、不足への見せかけは自己卑下)
・言葉による娯楽に関して:機知(超過は悪ふざけ、不足は野暮ったさ)
・人付き合いに関して:篤実さ(超過はへつらいや取り入り、不足は目くじらや気むずかしさ)
・羞恥心に関して:恥を知る(超過は恥ずかしがり、不足は恥知らず)
・隣人の苦痛と快楽に関して:義憤(苦痛の超過は妬み、苦痛の不足はいい気味だと思う気持ち)
・正義:
「正しい行為とは不正を為すことと不正をされることとの中間」(1133b30)
「不正を為すとはより多く手に入れることであり、不正をされるとは、より少なく手に入れることである」(同上)
「正義の徳(アレテー)とは一種の中間性であるが、これは、ほかのもろもろの徳(アレテー)と同じ意味での『中間性』ではなく、ちょうど中間のものに達するという意味におけることである」(同上)
(1)「名誉や財貨や、国に参画する人々のあいだで分けられるほかの諸価値の配分のうちに成り立つ正義」(第5巻第2章、1130b30)=配分される人と配分されるものとの比例的(幾何学的比例 アナロギア・ゲオーメトリケー)関係としての「中間性」
(2)「人と人とのもろもろの係わり合いにおいて不公正を矯正するもの」=「矯正的正義」(同上)(匡正的正義、応報的正義)=加益・加害と被益・被害の均衡(算術的比例 アナロギア・アリトメティケー)=「損害と利得の中間」(1132a)
(a) 随意的な交渉=「販売・購入・貸与・担保・融資・委託・賃貸」(1131a) など
(b) 不随意的な交渉
(i)「相手に秘密裏に為されるもの」=「窃盗・姦通・投毒・売春斡旋・奴隷強奪・暗殺・偽証」など (同上)
(ii)「暴力による強制を伴うもの」=「暴行・監禁・殺人・強盗・傷害・誹謗中傷・虐待」など(同上)
・人柄の徳(アレテー、卓越性)と思慮深さ(プロネーシス、フロネーシス。知的な徳のひとつ)の関係
欲求的・感情的部分(動物的部分)のアレテーである「人柄の徳」は目的を定め、理知的部分の「推理して知る部分」のアレテーである「思慮深さ」はその目的を達成するのに適切な手段を探究する。
「人間の働き[行為]は思慮深さと人柄の徳(アレテー)に基づいて果たされる。というのも、{人柄の}徳(アレテー)は目標を正しく定め、思慮深さはその目標に達するためのもろもろの事柄を正しく定めるからである」(第6巻第12章、1144b)
しかしながら、「人柄の徳」が目標として定める「中間性(中庸)」がどこになるかを示すのは、知的な徳のひとつである「思慮深さ」である。
「ここでの『中間性』とは、[その人の]分別(ロゴス)によって中間性と定まり、かつ思慮深い人ならば中間性と定めるような定め方において定まるものである」(第2巻第6章、1107a)